2010年4月10日土曜日

ピンドラーマ2010年3月号④<ドゥルヴァル・フェレイラ><エリコ・ヴェリッシモ④><何処を歩っているの?>

<新・一枚のブラジル音楽>

ドゥルヴァル・フェレイラ 「バチーダ・ジフェレンチ」
Durval Ferreira“Batida Diferente”


 リオには、もはやボサノヴァは生きていない。海外で生き延びているだけだ。7 年前リオに住み始めて間もなく僕はそう悟ったのだが、実はたったひとり、このボサノヴァの故郷リオで気を吐く老ボサノヴァ人がいたのだった。その名はドゥルヴァル・フェレイラ。
 1935 年生まれという事だから、あのロベルト・メネスカルより2歳年長、つまりボサノヴァの最盛期を知る生粋のボサノヴァ人ということになる。お恥ずかしい話だが、僕は彼について、名曲「Tristeza de nós dois /私たち二人の悲しみ」の作曲家としてしか知らなかった。このアルバムCD「バチーダ・ジフェレンチ」を聴いて、ああ、これも聴いたことがある、それも、あれも、という具合でようやく彼の、ボサノヴァ作曲家としての重要性を知った次第である。
 ドゥルヴァル氏とは、イパネマにあった「アントニーノ」というジャズ・ライブハウスで知り合って以来、数カ所で言葉を交わした程度だが、その印象は「笑顔、笑顔、そして笑顔」である。そう、名優ドナルド・サザーランドばりの個性的な鋭い視線で、顔をくしゃくしゃにして、笑う。演奏中も、実に楽しそう。こんなにウキウキとした喜びを顔じゅう、いや体じゅうにたたえながらボサノヴァを、「哀愁」のボサノヴァを演奏する人を僕は知らない。ボサノヴァはまだリオに生きている、そう思わせる真正ボサノヴァ人だった。
 この「バチーダ・ジフェレンチ」を聴いても、その笑顔は容易に聴くものの眼前に浮かんで来るはずだ。幕開けの“Estamos aí” を聴けば、ボサノヴァってこんなに楽しいの!?と、誰もが驚くであろう。続く2、3、4曲目と哀愁に満ちたスローナンバーが続いても、決してけだるくアンニュイな感じはしない。リオのたそがれの、健康な哀愁が漂っているだけだ。
 そう、ドゥルヴァル氏の音楽は「リオ」なのだ。パリでも、ニューヨークでも、東京でもない、健康なリオがそこに見える。
 そんな健康なリオのボサノヴァを、笑顔いっぱいに演奏しつづけたドゥルヴァル氏も癌という病には克てず、2007 年、72 歳で逝った。これにて、事実上リオのボサノヴァの灯は消えたのではないかという思いさえ抱いたものだ。


 翌2008 年、ボサノヴァの50 周年を祝って、あれは7 月だったであろうか、イパネマ海岸において、ロベルト・メネスカル、マルコス・ヴァーリ、ジョイスなど、有名ボサノヴァ人たちを集めて、一大イベントが行われたが、その際、僕が心から残念に思ったのは、ボサノヴァへの逆風強いリオで、笑顔で孤軍奮闘を続けたドゥルヴァル氏の姿が見られなかったことだ。ふだん海外で喝采に包まれて活動するボサノヴァ人たちより、このブラジルで、リオで、ボサノヴァを半世紀に渡って守り続けようとした彼にこそ、このイベントはふさわしいものではなかったか。
 何度目にお会いしたときだろうか、「おい、もう俺のCD 買ったか?アメリカでも評価が高いんだぞ!」と、あの強烈な笑顔で嬉しそうに話しかけて来たのを思い出す。僕はそのとき、まだ買ってなくて返答に困ったのだが、彼がもう亡くなってからようやく購入して、ああ、なぜもっと早く聴かなかったろうか、と後悔したものだ。遅まきながら、お答えしましょう、ドゥルヴァルさん、これは素晴らしいアルバムですよ! Parabéns!(おめでとう!)。
 あとで知った事だが、なんと、彼の長いボサノヴァ人生において、死の4 年前に録音されたこのCD こそ、彼の初ソロ・アルバムだったのだ。収録されている曲は、多くの演奏家に録音されて来た往年の名曲ばかりだが、生まれて初めて自作自演アルバムを録音する老ドゥルヴァル氏の喜びが、アルバムの全編に溢れている。制作を指揮する彼の喜びが、参加者全員の奏でる、ぴちぴちと生きの良い音を通じて僕らの心に伝わって来るのだ。
 生粋のボサノヴァ人、ドゥルヴァル・フェレイラが、その人生の形見に残した「バチーダ・ジフェレンチ」。遅れてやってきた、ボサノヴァの名盤である。



筆者 臼田 道成(うすだ みちなり)
歌手。主にボサノヴァ、MPB を歌う。
2002 年からリオ・デ・ジャネイロに滞在。現在、日本で日本で活躍中。
ホームページ http://www.michinariusuda.com/














<ブラジル文学周遊>
~エリコ・ヴェリッシモ 開拓移民の悲しみが重なる「時と風」④~


当時、グロボ社は出版事業の拡大を掲げていて、外国語ができ、また、自分でも作品を書くエリコは、翻訳だけでなく、刊行する翻訳作品の選択もするようになります。これは平たくいえば、売れる本を選ぶ選択眼がいるわけで、39 年には《ノベル》、《世紀の図書》という翻訳選集(ヴィルジニア・ウルフ、トーマスマン、バルザックなどの作品)を発行、爆発的な売れ行きを上げます。
かたわらバルガス新国家体制はつづき、出版物にも検閲の目が光ります。グロボ出版社は傍系「メリジアノ」出版社を創設。ここで、政府が嫌うものをひそかに発行しました。
エリコは女性の飛び下り自殺を目撃したことがあり、これを「静寂だけが残った」というタイトルの本にまとめたのですが、地元の聖職者団体から猛烈は批判を受けます。自殺ですからね。また、バルガスの独裁体制が災いを及ぼすことを恐れて、州の要請を受けてカリフォルニア大学でブラジル文学を教えることを受諾しました。これが43 年。
バークレイ市に家族で移転します。それからミウス・カレッジでブラジル文学や歴史も教え名
博士号を授与されてもいます。
45 年に帰国。47 年から前述の「時と風」の第一部大陸編の執筆を始めます。発表されると嵐のような賞賛を浴びました。
51 年、「時と風」第二部を上梓。アンナ・テーラの娘、ビビアナの時代が、その夫のロドリゴを主に繰り広げられます。

「1833 年のはじめ、サンタ・フェの村は新しい噂でもちきっていた。大きな幌馬車に乗った2 家族のドイツ移民が入ってきて、この村にドイツ系の人種の第一歩が印されたことだった。新移民は広場の真ん中に天幕を張ったが、村の人々はみんな家から出てそれをそっと見にやってきた。このサンタ・フェの多くの人々は、彼らの生涯に、こんな金髪の人間を見たことはなかったし、またあの白い肌や赤毛で、目が碧かったり、緑だったり灰色がかったりする人間が珍しかった。全く目新しいことばかりで、二月のある朝の広場はまるで教会のお祭りのような賑わいだった」
(『時と風・第二部あるロドリゴ大尉編』 19章 田畑三郎・八巻培夫 共訳)

ヨーロッパ移民を早くから受け入れた南部の社会に目を向けている点がエリコ文学の特徴です。
それまでブラジルを主導していた東北伯のポルトガル植民地文化をテーマにする東北伯出身の作家達とよく対比されます。ヨーロッパ移民によって始まる新しい社会経済、地元の特権階級の衰退をバックに物語りは展開するのですが、 「東北伯出身の作家には、民話という豊かな土壌があった。すごい宝庫だよ。ここ南部は痩せ地を耕さなければならない。だから、ヨーロッパ系と土着人の混合が重要なポイントになる」エリコの弁です。
しかし、前作ほどの評価は得られなかったこともあり、第二部を書き終えたエリコはスランプに陥
ります。パンアメリカ文化局長の任を引き受けて渡米。56 年に帰国し、58 年から第三部「群島」の執筆開始。この年に最初の心臓発作を見ます。
エリコは75 年に狭心症で死亡しますが、その2 年前に「コレイオ・デ・ポボ」紙のアントニオ記者のインタビューにつぎのように答えています。
「最近は、自分の作品に自己嫌悪を覚えるというか、一種の飽和状態に達して、書けなくなってしまった。昔の情熱を持って読書に励みたい思っている」
「…書き手というのは理性より本能が大事なんだ。今、67 歳になったものは30 歳、40 歳になりたいと願っても無理な話で・・・」
「自分の知らない新しいことがたくさんある。一生かけてやってきた仕事のなんと微小なことか。なんだか、迷っている。逡巡しているのかもしれない。しかし芸術に対する偉大な愛は消えていない。創造することでわたしの人生は倍になる。本にしろ、映画にしろ、テレビにしろ、ドラマにしろ、他の人生を垣間見ることができる。いつでも現実に起きている人生を見ることができる。生きるために行動する人間の姿は、神様がわれわれに与えてくれた素晴らしいことの一つだ」
「本はもう一つの魔法。(魔法という言葉が好きだ。映画の魔法、劇場の魔法、音楽の魔法)しかし、文学の魔法は異なる。本の役割も違う。
読むのを休み、後戻りしたり、考えたり、もう一度読んだりできる。
すると、もっと努力しなければいけないと思う。
人生の先が見えている。もう、狭心症にも見舞われているのだし。生きるのが好きだ。できるかぎり生きるために闘うつもりだ。同時に、時間を無駄にできないと思う。それで、社会的な交際はやめた。再出発したいという渇望がおおきい。新しい道を切り開きたい。だから、チャンスを与えてくれるように神様に揺さぶりをかけている。
残りの時間が心配なのではなく、邪魔になる心理的な時間と戦わなくてはいけない。薬を飲む。生きるために薬を飲む。カプセルを飲むと書きたい意欲がうせる。しかし、いろいろなプランがあり、それを実行に移したい」
(1973『コレイオ・ド・ポボ』アントニオ・HOHLFELDT 記者 訳・中田)
アントニオ記者はインタビューの最後をこんなふうに締めくくっています。
「インタビューを終えて、エリコが何百回となく歩いたであろう坂を下りながら、どんなに苦い思いで歩いているのだろうかと考えた。作品に下す厳しすぎる自己批判。それだからエリコはいまだに存在するのだと思う。常に自己と戦い、御しがたく、厳しいゆえに不満で、正直だからいつも疑念にさいなまされる。勇敢であるがゆえに怯えて見える。もっともっと生きるだろう。さらに書くだろう。わたしたち皆のために」(訳・中田)

狭心症の最初の発作が来たのは58 年。その後ずっと薬を飲む生活が続いていたわけです。ジョルジ・アマドが「ブラジルで筆一本で食べてきたのは俺とエリコだけだ。そういえば、最近は忘れられているな」。

薬を服用することで書けなかったのです。しかし、書きたい意欲はあり、自分史「クラリネットの独奏」の第二部の執筆中に斃れました。1975年11 月28 日でした。
ほとんど家具のない薄暗い書斎でエリコは物語をつむぎました。からっぽの机。その上に古いタイプライターが一台。帽子かけ、杖、傘おきがセットになったキャビネット。そしてタンつぼ。殺風景な部屋です。書く作業って、周囲の快適さを要求しないのです。たぶんその分だけ精神の快適さが要求されるのでしょう。


筆者 中田みちよ
青森県出身 在伯半世紀
第8回内田百閒文学賞随筆部門大賞(2005)



<ブラジル映画を楽しもう>
~何処を歩っているの? Onde Anda Voce?~


「長生きしたい!」と思う人は幸せ者です。この様な人は自分の希望と願いと思いが現実化し、功を成した人です。この世が大好きで、この世もこの様な人が大好きです。この様な人は常に何がしかの目的や夢を持ち、その目的の成就に対する希望があり、その目的の過程に対する楽しみがあり、その目的が必ず成就することの信念をもち、その目的が成就した時の喜びと感謝の気を持っている人です(理想の長寿 命理学)。
素晴らしい映画とは感動を与えたいと努力する製作スタッフが、感動したいと期待する視聴者に期待以上の感動を与える映画です。さて、映画のイメージ作りは音楽、照明、衣装、舞台、環境、役柄のパーフォーマンスでもって私達への幻想効果を促しています。そして映画監督がいつも注意を配っている点は観客、視聴者への錯乱効果、デリリオス(DELIRIOUS)効果です。
マイケル・ジャクソンのショー、観ました?「キャアー、マイケル!ウー!バタン!」女の子はすぐ卒倒ですね!(錯乱の大気を放つ側と受ける側の期待感の大差が大ショックでスパークし、爆発!という感じです)。リオのカーニバルで感じませんか?「ワクワク・ドキドキ!スゴイー!」って。恋愛情事の時にも感じるアレ(いつも期待はずれですか?勉強と訓練が足りん!)。実はブラジル人の演劇好きはこの錯乱効果にあります。「この演劇で私の心と魂を錯乱させて欲しい!」(これです、これが演劇好きの深層心理、無意識の叫びなのです)。
また、全ての人々が何らかの形でこの様なデリリオスの心理作用を得たいと欲しています。旅行で、酒で、そしてある者は演劇で、擬似恋愛で、セックスで。インターネットで、バーチャル・リアリティで。音楽、ダンス、カラオケ。レストランの美味しいもので。日本人は客観的にデリリオスを考えようとします、しかし、ブラジル人はデリリオスを主観的に感じようとします。
さて今日の映画は老人心理学の観点から見た映画です。ある老人が過去を振り返り、突如として未来に夢と希望を持って人生への再挑戦に挑もうとします。半面、死を直前にして人生のわだかまりの清算と埋め合わせの為にデリリオスの旅をする結果となります。
監督は「黒マントの男」、「カヌード戦争」、「気違い過ぎる女」「王、マウア」やTVグローボの大河連続ドラマ「七人の女性たちの家」で有名なセルジオ・レジェンデ氏です。自然の華麗さをよく取り入れ、深遠な幻覚幻想と神秘的なシンボリズムを駆使しつつ、人情とユーモアを加味し、なおかつ、事実を的確に捉えた映画作りが注目を浴びています(今回、北ブラジル観光、老人学、エスピリティズモ、漫才学を紹介しています)。
フェリシオ・バッレット(ジュッカ・デ・オリヴェイラ)は少なくとも20 年前まではとても有名な二人組のお笑い(漫才)芸人の一人でした。彼の相方マンダリン(ジョゼ・ウィルケー)が自殺して以来、美人妻パロマ(ドリカ・モラエス)とも離別し、内外(ヤル気と人気)共に落ち目になっていました。
夜中、友人からの電話で起こされ先妻パロマの死を知らされます。その瞬間、彼の脳裏に20 年前の若かりし美貌の彼女と華々しき恋愛に燃えた時の想い出が鮮明に蘇ってきました。そして彼女の側にはかつての相方で彼女を熱烈に愛していたマンダリンがいました(それはパロマと漫才仲間二人が葛藤を伴った三角関係で繋がっていたことを意味します)。芋づる式に辿った連想の先にマンダリンの自殺とブラジル中のTV,ラジオ、新聞が一面トップで取り上げ、国中が悲壮感に包まれた葬儀でした。
二人の死は彼の人生で最もショッキングな出来事であったことは確かです。彼の歩いた事実上の過去に二つの事がわだかまりとして残っていたのです。それは親愛なる相方マンダリンの自殺と妻パロマと相方マンダリンの恋愛関係です。
次の日、パロマの死を広報したTVはマンダリン・フェリシオの漫才仲間をも回想していました。その回想録に刺激されたフェリシオはもう一度漫才をやろうと決意します(20 年間のギャップを取り戻そう!)。しかしながらTV 局の有力者オリヴァ(リカルド・コソヴスキ)に老人扱いされ、激怒したフェリシオは心臓発作で倒れ危うく一命を取り止め病院生活を余儀なくされます。その間マンダリンの幻想が医者の姿で現れたり、退院後も家に現れフェリシオの再起を促します。
フェリシオの夢と信念は20 年前のそれでした。将来の相方を探しにテレジニャ市(ピアウイ州)に住む親友ジャジャ(ジョゼ・ドゥモンテ、ラジアリスタ:ラジオ番組をやっている)を訪ねます。フェリシオの相方探しのコンテストは開かれますが、知的センスの全くない、ふざけた田舎の連中達にガッカリして憂鬱な気持ちに襲われます(滑稽で大笑いの場面!地元のお笑い師達ばかりです)。
次の日、海辺で魚釣りをしながら、聖ペドロ(漁師だった)に話しかけ、「計画を続行するかどうか」のサインを依頼します(ブラジル人の習慣的信仰スタイルです!)。なんと、次の瞬間、竿が振動し始め、釣り上げた魚は口をパックリ開けます。フェリシオは驚きに喜びを加味しながら微笑み、その魚の口元で将来の相方、芸名ボッカ・プーラ(「純粋な口」と言われ、有名だが隠遁してしまった)との出会いの可能性を確信するのでした。
フォルタレーザ市に相方がいるらしいとの噂で、はるばるバスに乗り訪ねましたが、全てが思い違いの中に行き違いが生じてきます( ブラジルではいつもあること!泰然自若!忍耐!辛抱! )。気を紛らわす様に風光明媚な砂丘を歩いていると向こう側の砂丘の上に真っ裸のヴィーナスが真っ赤なスカーフを両手に持って風になびかせているのが見えました(びっくり!典型的な伯国型モルフォの美人!)。エステラ・ダ・ルス(レジアネ・アルヴェス)という若いモデルが写真家の前でポーズをとっています。あまりにも美しい彼女の肢体に見惚れたフェリシオはパロマの娘に違いないとの幻想的デリリオスの神話を作ってしまいます(これは娘を受け入れたということで、パロマの失態を許したことを意味します。ワダカマリが解決された)。
今度はラジェド町に住んでいるエネジオ(アラミス・トリンダデ)という男が本物のボカ・プーラだとの情報を得て、喜び勇んだフェリシオは新たな希望を持って出発します。 
初めて会ったエネジオですがフェリシオは直ぐに意気投合します。即座にコンビ結成、お笑い劇が始ったのです。そこにはマンダリン(幻覚の)と沢山の幻想上の観客と笑い声が彼等を取り巻いていました。コンビ名も浮かびます「ボカ・フェリシッシモ(口いっぱいの最高の幸せ)」。その夜、民宿の庭で晩餐会が開かれ、飲み、食い、歌い、そして踊り、お笑いジョークのやり取り(これはスゴーイよ!我々、日本人にはできませんね!)と皆が皆、喜びを満喫しました。
夜が明けると海辺の椰子の木陰にフェリシオは座っていました。目前にマンダリンとパロマを見ますが不信のワダカマリがすっかりなくなって清清しい気持ちです。隠せぬ喜びと郷愁を含んでフェリシオが二人に聞きます「霊界はどんな所?」と。マンダリンは「死というものはないんだ!」と答え、パロマも「全てが生きているのよ!」と答えます。またマンダリンが「今日はマザロッピが迎えに来るよ!とっても幸せだ!」と言い、「死人と会えて幸せかい?」とフェリシオが・・・。  


☆ 何処を歩っているの? Onde Anda Voce?( 2004 年作品)
監督 セルジオ・レジェンデ
出演 ジュッカ・デ・オリヴェイラ/ ジョゼ・ウィルケー / ドリカ・モラエスほか


筆者 佐藤 語 (さとう かたる)
映画によるアート・セラピスト

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