2010年5月11日火曜日

ピンドラーマ2010年4月号その2

<ブラジル移民レポート>
~オランダ編~

◎オランダ系ブランドの乳製品

「batavo バターボ」 というメーカーの乳製品がサンパウロのスーパーマーケットで販売されている。ヨーロッパの牧草地帯で白い帽子をかぶる少女の顔が思い浮かぶようなロゴマークで、バターボがオランダ人という意味であることを知ると、少女の顔がとたんにオランダ人に見えてくる。
「バターボ」はオランダ移民によって1928 年にパラナ州のカランベイCARAMBEÍ で創られた。カランベイは1995 年に隣接するカストロCASTROとポンタ・グロッサPONTA GROSSA から分離独立した町で、当地にコミュニティーを形成してきたオランダ移民によって発展してきた。カランベイの起源は1911 年に52 人のオランダ人が移民したことに始まり、1925 年にはオランダ系乳製品協同組合を発足させ、その3 年後に「バターボ」も誕生した。
第二次世界大戦後になると、オランダからの戦後移民がカストロの一地区に入植し、新しいコミュニティーであるカストロランダを形成した。戦前のカランベイのオランダ移民が築いた道を踏襲し、新しくカストロランダ協同組合を設立し、やがて同地のバターボ組合やアラポチ農業組合と合併してパラナ州乳製品中央組合を発足させ、現在はブラジル有数の乳製品組合に発展している。

◎ラテンアメリカ最大の風車は!?

カストロランダCASTROLANDA はパラナ州のカストロ内にあるオランダ系コミュニティー。1950 年以降、第二次世界大戦で疲弊したオランダを離れ、新天地で新しい人生を踏み出そうとしたオランダ人農業従事者を中心にコミュニティーは発展してきた。戦後のオランダ移民は、オランダ本国から最新鋭の農業器具や血統書付の家畜を持ち込み、当地の農業・乳業が飛躍的に発展することに貢献した。
カストロランダには2001 年に建設された名物の風車がある。高さ37m、羽根の全長が26m に及ぶ伝統的なデザインの風車は、オランダ在住のベテラン風車設計士Jan Heijdra 氏によって設計された。ラテンアメリカ最大の大きさを誇るはずだったカストロランダの風車・・・が、2008 年にはライバルが出現。同じくJan Heijdra 氏の設計によってサンパウロ州オランブラにも、当地のオランダ移民入植60 周年を記念して高さ38.5m、羽根の全長24 mの風車が建造された。オランブラの風車もラテンアメリカ最大と言われるようになり、高さで取るか羽根の全長で取るか、いずれにしてもブラジルの青空と雲によく映える風車が美しい。












◎オランダ人とブラジルの関係

現在、ブラジル全土にオランダ人は暮らしており、オランダ人全体の数は特定されていない。プライバシーを重視するオランダの法律により移住者の正確な数が把握しにくく、1 万人~ 3 万人など数値は変化する。
ブラジルとオランダ人の歴史は長い。17 世紀にさかのぼると、ドイツ貴族出身のマウリシオ・デ・ナッサウを総督としたオランダ西インド会社がレシーフェ(PE)を中心にブラジル東北部を支配し、サトウキビ貿易によってオランダに富をもたらした。
18 世紀に入ると、ブラジル南部ではセズマリア(*1) がフランス人、ベルギー人、ドイツ人、オランダ人などに与えられ、ヨーロッパ各国の移民は小集団にまとまってコロニア(入植地)を形成し始めていた。例えば、パラナ州のカンポス・ジェライス地域(*2) では家畜の囲い場が作られるようになり、20 世紀にオランダ移民が乳業で台頭する素地が養われていたという見方ができる。

◎花と風車の町オランンブラ

サンパウロ州オランブラHOLAMBRA は、大小様々な風車を町のいたるところで見ることができる。道路標識はチューリップの形、通りの名前を示す看板にもチューリップのデザイン。一歩町を出れば、花を生産する農場が点在し、毎年9 月に開催される大規模な花祭りは、ブラジル各地から人々が訪れる。
町の名前はHOLLAND のHOL、AMERICA のAM、BRAZIL のBRA を合わせたもので、1993 年に一つの市として独立した。独立以前のオランブラは3 つの町の辺境にまたがっており、教会や学校、診療所など、オランダ人が利用する施設も3つの町に散在していたため、インフラ整備を速やかに充実させ、主力産業である花産業を発展させるねらいもあって、3 つの町から分離独立させられた。
オランブラの起源は1948 年に2 人のオランダ移民が同地域にあった約5000ha のリベイロン農場に入植したのが始まりで、その後続けてオランダ移民が集団で同農場を中心としたコロニアに移住した。’48 ~ ’99 年の間に合計1212 人が入植(表を参照)、第二次世界大戦後、ブラジルに渡ったオランダ人の数は’48 ~ ’99 年の間に6986 人が記録されており、内オランブラに入植したのが最も多く全体の17.3%を占めている。 
ブラジル国内にはパラナネマPARANANEMA(SP) の第2 オランブラ移住地Holambra Ⅱ や前述のカランベイやカストロランダなど、オランダ人の集団移住地として知られる町が6ヵ所あり、オランブラは最も大きな移住地となっている。

◎花で花咲いた町

サンパウロ州はブラジル国内最大の花の生産地( 全体の約70% ) で、オランブラはサンパウロ州内最大の花の生産地となっている。オランブラで花を生産する農場の約半数はオランダ系である。オランブラのヴェーリング市場はラテンアメリカで最大の花のマーケットとして知られている。
オランブラで花が栽培されるようになったきっかけは、オランダ移民が祖国からたまたま持ち込んだグラジオラスを庭先に植えたところ、順調に育ったことにあるという。有利な条件で販売することができたため、やがて既に花の生産国であったオランダから花栽培を目的に移住するものも現れた。’54 年にグラジオラスが生産され始めて以来、’60 ~ ’80 年代にかけてバラ、ガーベラ、セントポーリアなど、現在まで栽培されている花や苗が生産されるようになった。
日系農家もサンパウ州を代表する花の生産者であり、花を通じたオランブラとの関係は深い。

◎ 日帰りドライブに最適の オランブラ

オランダ移民の足跡を身近に感じられるオランブラへは、車での日帰り旅行が最適。サンパウロ市内から約2 時間ほどで、大きな風車やオランダ料理を楽しめる、ひっそりとのどかな町に到着できる。9 月の花祭りの時期は多くの人出で活気づく。
町の出入り口の一つに名物の大風車と観光案内所がある。そこから町中に向かうとオランブラの歴史文化博物館にたどり着く。メンイストリート沿いには簡素な教会やオランダ移民の高齢者が入居している福祉施設などもあり、警笛を鳴らすのを禁止するチューリップ型の道路標識が目に留まる。
花の農園を見学できるツアーも観光案内所で申し込める。

【オランブラのインフォメーション】

☆オランブラ歴史文化博物館 Museu Histórico-Cultural de Holambra
博物館といっても小農園のような雰囲気。1948 年の入植当時から現在までのオランダ移民の足跡をたどることのできる写真、移民したばかりのころにオランダ人が暮らした家のレプリカなどが展示されている。名物の木靴も購入できる。外に展示されている礼拝堂の屋根の鐘は、1933 年にオランダ移民が持ち込んだもので、ナチス・ドイツによって武器に作り変えられるのを避けられた貴重な鐘。
開館時間 火~金:11 時-16 時
土・日・祝: 10 時半 -16 時半 
入館料3 レアル Tel : (19) 3802 -2 053

☆ Restaurante Casa Bela(オランダ料理)
オランダのジャガイモ料理のスタンポットやヒュッツポット、オランダ植民地時代のインドネシア料理に影響を受けたナシゴレンなど、現代風にアレンジされた様々な料理が食べられる。土産物店も隣接している。
火~日:11 時半-14 時(ブッフェ)
土・日・祝: 12 時-15 時( ブッフェ) 
営業時間はどの日もアラカルトは最後の客まで 
月: 休み 
Tel: (19) 3802-1804

☆ The Old Dutch(オランダ料理)
田舎風のたたずまいでジャガイモや肉・魚の素朴な料理が名物。
火~金:11 時20 分-14 時半
土・日・祝: 11 時半 - 16 時 
月: 休み
Tel: (19) 3802 - 1290

☆観光案内所: TEL:019・3802・9636

☆オランブラへのバスでのアクセス
チエテ・バスターミナルからカンピーナスへ約1 時間。カンピーナスのターミナルから徒歩5分のローカルバスのバス停でARTUR NOGUEIRA(VIA HOLAMBRA)行きに乗り約55 分。土日はローカルバスの本数が少ないので、行きはARTUR NOGUEIRA 行き( 土:8 時半発 日: 9時20 分発)に乗り、帰りはCAMPINAS 行き( 土・日:15 時45 分、17 時10 分、18 時15 分)に乗った方がよい。バス時刻の詳細は観光案内所で確認した方がよい。

※参考文献:ブラジル花卉産業史編纂委員会『ブラジル花卉産業史序説』,2009 他

*1 ポルトガル王がブラジルの開拓者に分割、封与した土地。
*2 パラナ州ポンタ・グロッサの辺りを中心とする地域。

企画:ピンドラーマ編集部 文・写真=おおうらともこ

おおうらともこ
1979 年兵庫県生まれ。’01 よりサンパウロ在住。ブラジル民族文化研究センターに所属。子どもの発達に時々悩み、励まされる生活を送る。


<ブラジル版百人一語>
カルロス・ディエゲス(映画監督)

「かつて、われわれはブラジルを軽視し、この国の事象に価値を与えないのが、流行だった。幸いなことに最近は、この悪しき習慣から自由になってきてきているが、自国に対する冷笑的な見方はいまだに続いている。私とて、生活するにはブラジルが世界で最良のところだとは思わない。むしろ、周知の如く、生活するにもややこしく、重態的な基本問題も悲惨な状態も累積し、住民の大多数が疎外されている国なのだ。だが、私はブラジルとブラジル国民に限りなき好奇心を抱いている。われわれはその使命を果たしていないけれど、ブラジルは西欧文明の継承において、何がしかのものになると運命付けられている、と私は考える。ある思想家は、中国や日本が極東であるのに対し、ブラジルは極西だとみなした。実際のところブラジルはまさしく極西であり、西欧文明のリーダーシップを受け継ぐ、稀有な天賦の才に恵まれた極西であるのに、われわれはそのことに気付いていない。(自国についての無理解は)自分の責任なのに、他者に責任をなすりつけようとするのは、まさにわれわれの責任なのだ。こんなフラストレーションを抱えつつも、私はブラジル国民を愛している。」


1956 年リオ。文化の分野でもエポックメイキングな” 事件” が起きた年であった。
ヴィニシウス・デ・モラエスの劇作『コンセイサゥンのオルフェ』が市立劇場で公演され、そのストーリーの斬新さに加え、建築家オスカール・ニーマイヤーによる極度に抽象的な舞台装置、そしてトム・ジョビンの舞台音楽、という究極の三位一体が観客の五感とハートを鷲づかみにしていた。そして、青年ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督の長編映画第一作『リオ40 度』。シネマ・ノーヴォを先取りしたレアリズム映画は、そのラディカルさにおいて一旦政府によって上映禁止となったが、関係者の奔走の結果、公開にこぎつけ、圧倒的なインパクトをもたらしていた。当時16 歳だった多感な高校生が、この劇と映画における話題作二つをみて、自らの人生観が転換してしまったほどの衝撃を受けていた。現代ブラジルを代表する映画監督カルロス・ディエゲス(1940 年アラゴアス生まれ)の若き日々である。
人は、親しみをこめて” カカー” と愛称する。
カカーは、PUC( カトリック大学)で法学を修めるが、学生運動で頭角を現すものの、映画人として生きる道を選択する。その長編第一作が17世紀の逃亡奴隷王国パルマーレスを描いた『ガンガ・ズンバ』(1963 年)であった。ネルソン・ペレイラ、グラウベル・ローシャ、ジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデ、レオン・イルツマンといった個性的な映画人が推し進めたシネマ・ノーヴォという映画革新運動の、一番若い参列者として23 歳でデビューしたのであった。
『シカ・ダ・シルヴァ』(1976 年)は18 世紀ミナスで実在した女性奴隷の半生を描き、『バイバイ・ブラジル』(1979 年)ではテレビ文化批判を、『キロンボ』(1984 年)では再び逃亡奴隷王国パルマーレスの戦いを扱い、『オルフェ』(1999年)はヴィニシウスの原作に忠実に映像化、『ゴッド イズ ブラジリアン』(2002 年)では「神を信じなかった聖人」を通じた” 神の人間化” を主張した。このように一貫してブラジルの歴史や現実を題材として映画というツールを活用した“ カカー風料理” を観客に提示してきている。その“ 味” が広く受け入れられたことは、入場観客数(『シカ』550 万人、『バイバイ』250 万人、『ゴッド』200 万人)をみても明らかだ。
冒頭に引用したのは、ジャーナリスト、ロベルト・ダヴィラのインタビュー集『映画人たち』(2002 年)に収録されたカカーの発言であるが、筆者自身も2003 年、カカーにインタビューした際、貴方はどのように自己規定するか、との不躾な質問をぶつけたことがある。彼の答えは、自分はアラゴアス出身のカリオカで地域主義的心性を持たない人間だが、あえて自己規定すれば「ブラジル知りたがり屋」ないし「ブラジルという地理的領域に限りない好奇心を抱いている男」だ、というものだった。
著名な人類学者の次男として生まれたカカーは、父親のDNA を受け継ぎつつ、かつての強烈な軍事政権批判者から「ブラジルのあるべき姿」を追求する求道者になった、といえるかもしれない。


筆者 岸和田仁(きしわだひとし)
東京外国語大学卒。二度目のブラジル滞在(前回と合わせると、延べ19 年間)を終え、09 年6 月帰国。ブラジルを中心とするラテンアメリカ研究は継続中。著書に『熱帯の多人種主義社会』(つげ書房新社)。新しい著書を” 工事中”。




<ブラジル映画を楽しもう>
シーツの中で Entre Lençóis


かつて私の友人達(ブラジル人)と結婚観について会話した事があります。一人は「情熱的な恋(Passion)によってのみ、理想的なカップルの出会いがある、それが実って結婚に至る(ブラジル型)」と言いました。もう一人は「ある男女間にキューピットがやって来て二人の心に矢が放たれる。その時に恋が芽生え、以後カップルの二つの心臓は矢が刺さったまま恍惚と辛苦の狭間を愛による忍耐でもって通過し、結婚に至る(神話型)」と。他の者は「結婚仕掛け聖人、聖アントニオが遣って来て、情熱の恋と愛という神様の贈り物がカップルに与えられ夫婦が出来あがる(カトリック型)」と。「日本では恋無しの見合い結婚で夫婦になります(東洋型)」と彼等に話すと「間違っている!」との一言でした。今回の映画の内容と下記のBGM歌詞はごく最近の恋愛観を良く表しています。

   踊りが終わろうとしている時 僕は君を見た その時 時間が止まり、 
   胸のときめきを感じた 一生、君を愛していきたい


   こんな風に成ろうとは思いもしなかった もしこれが夢だったら、覚めたくない
   ほんの一瞬なのに、 今、私達が一緒になっている事を 貴方は知った
   考えたという訳でもないのに出会った シーツの中で


   それに私は 一生、君を愛していきたい こんな風に成ろうとは思いもしなかった
   もしこれが夢だったら、覚めたくない 


   これが本当の恋 ただ見つめ合うだけでも感じる 一生君と居たい
   シーツの中で 出会った時と事の成り行きをもう一度想いだしたい

今日の映画『シーツの中で』はディスコに行った男女がセックスの為に情恋関係を結び、モーテルに於いての6 時間、交接行為を3 回する間の会話(とくにロゴスとパトスの遣り取りは勉強の価値があり!)、冗談、笑談、スキンシップ、キッス、ゲーム遊び、二人劇、ストリップ・ショー、デザート食、幻想世界への誘い、写真撮り、喜ばせるファンタジー、感傷的心理関係、恋愛生態学、モーテルでの過ごし方(これぞブラジル版セックス聖典カーマ・スートラですぞ!)。舞台設定はリオ・デ・ジャネイロの海岸にある高級モーテルの一室(僕も行って見たい!)。
映画監督はコロンビアの映画界を代表する巨匠、グスタヴォ・ニエト・ロア(1942 年生)。
別居予定の既婚者、ロベルト役はレイナルド・ジアネキニ(1972 生)。ブラジルを代表する肉体美の持ち主、ブラジル中の女性に焼餅を焼かせる男。 
結婚式を今日に控えたパウラ役のパオラ・オリヴェイラ(1982 生)は今年のカーニバルの優勝候補だったグランデ・リオ・サンバ学校の代表、バッテリー女王として踊った絶世の麗尻美人です。
ロベルトは妻との喧嘩別れの憂さ晴らしと独身生活を再謳歌する船出にディスコでパウラをハントします。かたや、パウラは最後の独身最後の思い出にロベルトを誘惑します(女が男をハント?)。ストレス解消の癒しの為のセックス(ロベルトの)と独身最終日の快感を心ゆくまでに成したいと欲したパウラのセックスはシーツの中で激しく重なり合いました。
事を満足気に終えたパウラはバッグの中に手を入れて口紅を取ろうと躍起になっているところ、ロベルトがバッグを逆さにして中身を全部ベッドの上に広げてしまいました。何と!SMプレイの道具が色々と・・・(びっくり仰天!)。しかしながら、パウラは何の言い訳もせず、服を着て部屋から出ようとします。すかさず、ロベルトはドアの前に立ちはだかって「今のセックスは最高だったよ!君は?」と訊ねます。「私もよ!」との答えに、ロベルトが彼女の唇にキッスすると抱き合ったまま考えることもなく、服を脱がしあいベッドの上で愛し合うのでした。
そのあと、お腹の空いた二人はフルーツをチョコレートで包んで食べます(事の後には糖分が必要ですね)。満足感が疲労感に変わった彼はランプを消して寝ようとしますがパウラがその態度にクレーム「一人にしないで欲しいわ!」と。納得できないロベルトは怒って「もう帰る」と服を着てしまいます。その時「今日、私、結婚するの!今日が独身最後の日なの!」と意外な告白をするパウラ。それを聞いたロベルトは益々怒って「じゃ!僕は君に利用されたディスポか!」。その空気を読んだパウラはすかさず「御免なさい!本当に御免なさい!」と謝罪(ブラジル女性はヤリマスネ!
男性を凌ぐ・・・!)。
怒りが収まったのを見計らったパウラは持っていたアロマ・オイルを使ってロベルトの心を癒すべく体を入念にさすってマッサージします。かわってロベルトもパウラの体をマッサージしながら真面目に自己紹介します。今度は余興をやろうと言うことでパウラがストリップを披露します。麗しい肢体から脱いでいく下着、それを見るロベルトの子供風のはしゃぎ方。彼等のショーに興奮した二人はまた抱き合い、重なり合い、さすり合いの愛撫が始まります。
ふと深刻な様相になって服を着付け始めたパウラに「昨日、僕は別居したんだ!」と真相を告げるロベルト。そして「君は本当に美しい!(愛の告白)」と。その言葉にパウラは動揺し、マジに結婚放棄の決意まで考えます(静寂)。暗い雰囲気を取り払おうと、ロベルトがデジカメでパウラを写し始めます(パウラの笑顔をもう一度!)。それに答えてパウラも色々なポーズを返します(微笑み)。
パウラの入浴中に、ロベルトは真紅のバラを部屋中に置きます。それを見たパウラは驚きと感動と嬉さで言葉を詰まらせてしまいます。ロベルトは「何も言わなくていいよ!踊ろうよ!」と(ロマンチックですね!)。
やがて夜が明けてベランダに出る二人。その眼前に広がる海と島々の風光明媚な景色は彼らを清々しい気持ちに浸らせます。そんな時ロベルトのポケットから携帯電話の音がします。妻からの電話です。何回も鳴るベルの音にパウラが不機嫌になって「受けなさいよ!」と言います。ロベルトは「いや!今、受ければ、妻に嘘をつくことになるから!同時に貴方にも嘘をつくことになる!それが嫌だから・・・後で本当の事を妻に話すよ!」。そこへパウラの携帯は婚約者から、そして彼のは妻からメッセージが入ってきます。二人は心配と深刻さが混入して複雑な心境になっていきます。パウラは婚前に愛人を持ったような状況に駆られます。婚約者との関係を今、切断してロベルトと結婚すべきとの選択を迫られます。しかしロベルトはパウラに「誰も傷つけてはならない!婚約者も、妻も!そして、それに関係した人々にも、そして、確実な決定は今できないし、してはいけない!誰の責任でもなく、誰も悪くない!現状況が自然にそうしたのだから!全ては自分達の意図が恋愛ファンタジーとして現実化したに過ぎない!」と。パウラも同調し、それ以上の結果(ロベルトとの結婚)を要求しないと言うことで妥協します。その結論に至った二人は涙と悲しみに浸りながら抱き合い最後の夢事を供宴するのでした。
部屋を出る時、二人はお互い、丁重に感謝の意を呈し、断腸の思いを短い頬へのキッスに、そして決意を、離し難い握手に込めて、ドアを開けたのでした・・・


☆ シーツのシーツの中で Entre Lençóis (2008 年作品)
監督 グスタヴォ・ニエト・ロア
出演 レイナルド・ジアネキニ/ パオラ・オリヴェイラ


筆者 佐藤 語 (さとう かたる)
映画によるアート・セラピスト



<新・一枚のブラジル音楽>

アドニラン・バルボーザ / ドクメント・イネーヂト(未発表の記録)
Adoniran Barbosa / Documento Inédito



かつて詩人のヴィニシウス・ヂ・モライスは「サンパウロはサンバの墓場」と言ったことがあるそうだが、これはカリオカ特有のサンパウロに対する悪意のこもった偏見によるものだろう。別にリオのサンバだけがサンバではない。サンパウロにもサルヴァドールにも、ベレンにだってサンバはある。
2010 年の今年、リオのサンバ界は名作曲家ノエル・ローザの生誕100 周年で盛り上がっているそうだが、サンパウロでも同じく生誕100周年を迎えたサンバ界の重要人物がいることを忘れてはならない。「誰それ?」という人もいるかもしれないが、彼の代表作「11 時の夜汽車Trem das Onze」を聴けば、「あ、あの曲か!」と思い出すのではないだろうか。「もうすぐ終電が出てしまう、お母さんが待つ家に帰らないと」と、恋人との別れ際を歌ったこの曲は、パウリスタなら誰でも口ずさめるサンパウロのサンバの名曲だ。その作者の名はアドニラン・バルボーザである。
アドニラン・バルボーザこと、ジョアン・ルビナートは1910 年11 月23 日、イタリア系移民の両親の元、カンピーナス近郊のヴァリーニョスValinhos で生まれた。戦前からラジオDJ やコメディアンとして活躍、今でいうマルチタレントのハシリだった。当初は本名で活動していたが、音楽活動をする際の芸名として自ら「アドニラン・バルボーザ」を名乗った。これは本人があくまで「音楽活動は副業として」、との思いからだったそうだ。1949 年、映画音楽の仕事を通じてサンパウロのサンバ・グループ、デモニオス・ダ・ガロアDemônios da Garoa と知り合うと、密接に活動を共にするようになる(まああえて分かりやすく例えるなら「内山田洋とクールファイブ」的な関係か)。それはアドニランが亡くなるまで続いた。
アドニランの名が一躍有名になったのは1951 年に書いた「Saudosa Maloca」という曲がヒットしてから。この曲は古き良きサンパウロの街並みが急速に都会に変わっていく様子をせつなく歌い、人々の共感を得た。1956 年にはブラジルの有名な小説家ジョゼー・デ・アレンカールJosé de Alencar の代表作からインスパイアを受けた「Iracema」がヒット。そして1964 年に生涯の代表作となる前述の「Trem das Onze」を発表、これが空前の大ヒットを記録した。この曲はガル・コスタをはじめ多くの歌手がカバーしており、サンパウロを代表する歌として市民に定着した。
作詞作曲家として成功した彼だが、自身は歌手活動にはあまり力を入れていなかったようで、1950 年代に数枚のSP レコードを出しただけで、1960 年代は全くリリースしていなく、初のソロコンサートは1972 年、初アルバムは1974年になってからだった。
アドニランを語る上でエリス・レジーナElis Regina の存在は忘れることは出来ない。当時、人気絶頂にあったエリスは、アドニランと大変気があったようで、自身のテレビ番組に度々出演させ、共演を果たしている。映像も一部残っており、是非観て頂きたいのはエリスのDVD BOXに収録された1978 年の共演の模様だ*。
これはエリスの特別番組で放送されたもので、アドニランの生活の拠点だった町、ビシーガBexiga(サンパウロ市内)で撮影されており、音楽はもちろん、二人の佇まいやファッション、バールの雰囲気、町の風景など全てにおいて非常に素晴らしい内容だ。ブラジル音楽のひとつの至宝といっても過言ではないだろう(伴奏者が使っている楽器がリオのサンバの演奏者とは微妙に違うのも興味深い)。
アドニランは1982 年、72 歳の生涯を閉じた。亡くなるまでに4 枚の作品を発表した(スタジオ録音3 枚、ライブ盤1 枚。没後、2 枚未発表録音集がリリースされた)。
今回紹介するのは、彼の没後1984 年に発表された、主にテレビ出演時の音源からセレクションした未発表録音集。前述の「Saudosa Maloca」と「Trem das Onze」のほか「Samba Italiano」など、誇り高きパウリスタのサンバが収録されている。特に1 曲目のエリス・レジーナとのメドレーは、1965 年に収録されたもので、この時期の彼の録音は珍しく資料的価値も高い。
晩年まで精力的に活動していたアドニラン、帽子と蝶ネクタイがトレードマークの紳士だった。派手な生活とは無縁で、イタリア系移民の多く住むビシーガという町を愛し、生涯その日暮らしのボヘミアンな生き方を送っていた人物だった。現在も高くリスペクトされ、あのフンド・ヂ・キンタウFundo de Quintal もサンパウロでライブするときには必ず彼の曲を演奏するという。
「サンパウロのサンバなんて…」、と言う前に、サンバに興味があるのなら是非一度聴いて欲しい作品だ。

(*)Youtube にて視聴可能 
http://www.youtube.com/watch?v=Ea5nMXIRxQM


Willie Whopper
東京・西荻窪にあるブラジル・スタイルのバー、Aparecida のオーナー。著書に『ムジカ・モデルナ』、
他、CD ライナー等多数執筆。




<ピアーダで学ぶブラジル>
お題:シャンプーSHAMPOO


金髪娘がシャワーに入る前にシャンプーをしています。



お母さん「あなた、なんでそんなことするの?」

娘「だって、『乾いた髪用』って書いてあったんだもん…」



A loira botou o shampoo antes de entrar no chuveiro.


"Filha, por que você faz isso?"


"Porque tinha escrito,‘para cabelos secos’..."


<解題>
ブラジルで、金髪の女の子は「おバカちゃん」の代名詞。
いわゆるステレオタイプ(紋切り型思考)で事実無根ですが、その起源は20世紀のアメリカ。アニータ・ルース作「紳士は金髪がお好き」は、ミュージカルやマリリン・モンロー主演の映画にもなりましたが、作者(金髪ではない)の男友達がみんな、金髪に染めた女性たちにどうしようもなく熱を上げているのを見て着想を得たコメディーで、これが起源と言われています。
金髪はヨーロッパ女性の代表的美しさなのですが、男性が金髪女性に魅かれるのを見て、黒髪や茶髪の女性が金髪に染める(マリリン・モンローもそうですね)=尻軽な愚かな行為、「金髪=おバカ」となってしまったようです。ちなみに、サンパウロにいる金髪女性のうち本当の(生まれつきの)金髪は15人にひとりだけというニュースが以前ありました。






1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

Entre Lençóisをyoutubeでみつけて観ました。まったく言葉がわからなかったので解説読んでスッキリしました。ありがとうございました。字幕付きでもう一度観たいです。