2010年10月17日日曜日

ピンドラーマ2010年9月号

10月も半ばを過ぎ、ピンドラーマの最新号(10月号)もすでに行き渡ったと思いますので、先月号(9月号)の中身を一挙に公開します。
(川原崎)







<ブラジルを撮る!!>

サンパウロ美術館(MASP)の吹き抜け広場でボサノヴァを演奏する男性。高台となっている広場からの眺めが美しいことから、MASP 後方エリアはBela Vista と呼ばれる。


写真=山本綾子




<移民の肖像>

ロンドリーナ在住

沼田利子(ぬまた・としこ)さん



「悲しくなった時は、これを見て元気を付けているんです」―。パラナ州ロンドリーナ市内に住む沼田利子さん(92、北海道出身)は、部屋に飾られた亡夫の数々の賞状を見ながら、表情を和ませた。

祖父の時代から札幌市で呉服店をやっていた山本家(利子さんの旧姓)は、長兄が最初にブラジル行きを希望した。父母が引っ張られる形で家族は1932年に渡伯。父親の龍蔵さんは、当時すでに61歳だった。 

女学生だった利子さんは「利子だけは本家に置いていってほしい」との叔父の願いにより札幌に留まったが、結局、翌33年8月、次兄とともに「りおでじゃねいろ丸」で神戸港を出航。両親たちが入植していた聖州バストスのプログレッソ区に呼び寄せで入った。 

バストスは当時、綿作景気で沸いていた時代で、利子さん自身が働き盛りだったこともあり、否応無く農作業を手伝わされた。

39年、親の薦めにより、同じ北海道出身の沼田貞作(さださく)さん(92年、77歳で死去)と見合いもすることなく結婚。バストスから約400キロ離れたパラナ州ロンドリーナの中央区に嫁いだ。

その後、利子さんの妹が貞作さんの弟(沼田信一(しんいち)氏)と結婚、長兄が貞作さんの妹と結ばれるなど、北海道に居た頃から両家が知り合いだったこともあり、沼田家と山本家は縁はさらに深まった。

「私が最初に沼田家で頑張ったお陰で、他の兄妹たちが行ったり来たりできたのよ」と利子さんは、胸を張る。

貞作さんは同地に4アルケール(約10ヘクタール)の土地を購入。さらに4アルケールを増やした上、霜害の影響などでフレイザと呼ばれたロンドリーナから10キロほど離れた土地にも17アルケールの土地を買うなど、次々と面積を広げた。
当時の北パラナは誰もがコーヒー生産を行っていた時代。「土地が良くてね。肥料もやらずに何を植えても本当によくできた。時間がもったいない、と働きまくったよ」と利子さん。二男二女の子宝にも恵まれ、子育てしながら夫と一緒に50歳過ぎまで畑仕事を続けてきた。 

「ブラジルに来たら、女の方が酷かったというのは本当だったね」

日曜日は午後から半日の休みがあり、男たちは野球などの娯楽で気分転換ができたが、女性たちは働き詰めの毎日。

利子さんの当時の日常生活は、午前5時に起きて食事作りから始まり、子供のおしめを洗って風呂の水汲み。一日中畑仕事を手伝った後、再び夕食の準備と後片付け。日曜日は午前中の畑仕事の後、午後から1週間分溜まった洗濯が夕方までかかり、「休んだと思ったら、夕食の支度」(利子さん)という生活だった。

夫の貞作さんは、地域の世話役としてパラナ日伯文化連合会(アリアンサ)会長や北海道協会ロンドリーナ支部長などを歴任。88年にはパラナ州日本移民80周年記念祭典の実行委員長を務めるなどし、同年、日本政府から勲五等瑞宝章を受章している。

そのきっかけは、72年にコチア産組の農業技師をしていた長男が事故死したことだった。サンパウロの電話会社に勤めていた次男の雄史郎さん(63、2世)が急きょ、ロンドリーナに戻った。貞作さんは元気を無くし、畑を売りに出したという。 

「その頃は悲しいことばかりだった」という利子さんは、長男の事故死を機に西本願寺に入信。86年10月には、京都で開かれた第8回世界仏教婦人会大会で南米代表として意見発表も行っている。

2007年12月に90歳の誕生日を迎え、家族・親戚一同に祝福された利子さんは、「ひどいこともあったけれど、ブラジルに来て良い人生を送らせてもらったと思う」としみじみ語りながら、部屋に飾られた賞状を改めて見回した。
 

松本 浩治(まつもと こうじ)
在伯14 年。
HPサイト「マツモトコージ写真館」
http://www.100nen.com.br/ja/matsumoto/




<ブラジル面白ニュース>

アマゾンに生きる日系女性の話



大都会のサンパウロに住んでいると、ブラジルって日本とあまり変わらないなと思いますが、日本人が抱くブラジルのイメージは、やはり、アマゾン、サッカー、サンバでしょうか?



◆闇にうごめく鋭い光の正体は?

暗闇で爛らんと輝く複数の光の玉――。サンパウロやリオデジャネイロだとファヴェーラに灯る裸電球かと思いますが、ここはアマゾン川流域の町、アマゾナス州マミラウアー。その光る物体は、この地域で住民1 人当たり90 匹を数える無数のワニの眼光なのです。なかでもジャカレ・アス(アリゲーター)は体長6 メートルを超えるものもいて、南米最大の捕食動物と言われるほど獰猛。そんな巨大ワニに襲われたら一溜まりもないですよね。



◆日系生物学者、巨大ワニと果敢に戦う

サンパウロ出身の西村デイゼさん(当時24 歳)は、子どもの頃からの夢だった生物学者となり、マミラウアーの環境保護区内にある水上ハウスに住んでいました。そして、2009 年12 月30 日、水上ハウスの水際で魚をさばいていた時、何者かが彼女に飛び掛り、あっという間に水中へと引きずり込んだのです。

「この瞬間、『あぁ、私は死ぬんだわ!』と思った。けど、すぐに、あるドキュメンタリー番組を思い出したの。それは、『サメに襲われたら、サメの弱点である鼻を攻撃しろ』というもの。それで『ワニの弱点は?』と考えて、ワニの頭に手を置いたら、穴が二つあった。鼻だったのか、眼だったのか、よく分からなかったけど、死に物狂いでその穴に指を入れて力いっぱい突き刺したわ。そうしたら、ワニが力を抜いたので逃げることができた。でも、その時、もう、私の右足に感触がないのが分かったわ・・・」



◆アマゾンにかける情熱

デイゼさんは水上ハウスまで泳ぎ、杭をよじ登り、無線ラジオの部屋まで這い、救助を求めました。15分後、環境保護区の職員が駆けつけ、止血帯を施し、テフェー市の病院まで運び込みましたが、そこで驚いたのは医師たちでした。というのは、足を食い千切られたにも関わらず、デイゼさんの大腿動脈は止血帯を外した状態でも出血がなかったから。どうやら、ワニがデイゼさんを振り回した際、動脈を捻って止血したらしいのです。ちなみに、翌日、周辺住民がデイゼさんを襲った4 メートル以上もの巨大ワニを殺し、デイゼさんの足を取り戻しましたが、再移植はできませんでした。

さて、勇敢に巨大ワニと戦ったデイゼさん。ワニなんてもう懲りごりと思いきや、自分を襲ったワニが殺されたことを悲しみ、「私たちがワニ捕獲を解禁したら、ワニが全滅してしまう」と自然保護を訴えています。そして、一刻も早くアマゾン川に戻り、ずっと携わっていたアマゾンカワイルカの調査に戻りたいと意欲を燃やしているのです。早ければ、2011 年にも戻るとか。

デイゼさんのアマゾンにかける情熱は、サンパウロでのほほんと生きている私に喝を入れてくれたような気がします。


門脇さおり
島根県出身。会社員。2児の母。




世界の難民・亡命者の窓口


地下鉄セー駅近くのひっそりとしたビルの2階に「難民保護センターCentro de Acolhida paraRefugiados」がある。事務所の前には毎日、様々な人種や国籍の男女がセンター職員の応接を待っている。人々の表情は、どちらかというとメディアで報道される悲壮感や貧困に苦しむ難民のイメージというよりは、穏やかな一般のブラジル生活者を思わせられる。



◆ブラジルの難民保護センター

難民保護センターは、ブラジルに到着した世界からの難民や亡命希望者に応じる窓口で、サンパウロとリオデジャネイロの2ヵ所に設置されている。サンパウロの難民保護センターはサンパウロ・カリタス大司教区*の組織の一つで、ブラジル法務省の国立難民委員会(CONARE) と連携した国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) やブラジルの社会組織と救援ネットワークを結んでいる。窓口では難民個人の状況や出身国の社会状況などを話し合い、国際法やブラジルの難民法に基づき永住権を取得するための必要書類を作成する支援を行う他、必要に応じて食料や衣服を提供し、住居の紹介、就学や就職の支援も行う。

サンパウロ・カリタス大司教区は1977 年以降、ブラジルに渡った難民の保護、救援、社会への統合を援助し、1985年にはその活動が世界から称えられ、代表のドン・パウロ・エバリスト・アーンス枢機卿がUNHCR のナンセン難民賞を受賞している。UNHCR とは1989年から共に活動を行っている。



*ローマを本部とする世界200 カ国で社会活動を行うカトリック教会ネットワークの一つ。



◆難民と認定されなければ移民として

現在、ブラジルは中南米で最も多くの難民を受け入れており、2008 年のブラジル政府への庇護申請数と保護数は表のようになっている。庇護申請者の約80%はアフリカ出身で多くは単身、全体の25%が女性で、家族での申請は5 ~ 10%という。
2008 年は、難民と認定されブラジルの難民法に基づき永住ビザを取得できたのは約18%、残りは移民法でのブラジル居住を模索することになった。難民と認定されず、期限付きのビザを所持していた場合などは、不法滞在で過ごす者も出てくる。その場合は恩赦を待つなど、ブラジルの移民法によるビザ取得を目指すこともできる。

難民保護センターのセジーラ・フルチンCEZIRA FURTIM さん( コーディネーター) は、「ブラジルの難民法は寛容で、センターは政府機関と市民活動と連携して難民や亡命者の支援に務めています」と話す。ブラジルの社会組織、例えば公立のクリニカス病院は難民の健康を守り、身近に文化イベントなどが親しめるSESC は難民のための特別ポルトガル語教室を開き交通費やテキストも無償で用意する。他にも多くの市民活動が難民やの亡命者のブラジル定住を支援している。



◆ブラジルへ渡る難民・亡命者の 動機と渡航ルートの一例

センターを訪ねた日、廊下でセンター職員の応接を待っていたのは、コンゴ民主共和国の母子、ギニアビサウの男性、キューバの女性だった。

コンゴ民主共和国( 旧ザイール) からのブラジルへの難民は、ここ4、5 年で急速に増えている。本国と近隣諸国との戦争で多くの犠牲者が出る中、家族の援助を受けた若い世代が観光ビザでブラジルに渡るケースも目立つという。ブラジル到着後は難民保護センターで難民法による永住ビザの申請を願い出る。

ギニアビサウの男性は、「海外に出たかった。ヨーロッパに渡航したくても費用がかかり、生活に適応するのも言葉の通じるブラジルの方がよかった。植民地時代からアフリカの者が多くブラジルに渡っており親近感もある」と話す。ギニアビサウはポルトガルの旧植民地であるが、「ポルトガル語だけでなく、今も土着の言語も話す」と誇らしく語る。現在、永住ビザのプロトコールを手に入れた。

キューバの女性は2年前に労働ビザを得たボリビアに渡り、その後ブラジルに入国して難民法による永住ビザを申請中だと話す。

船に隠れて不法入国する者も多く、密入国者を見つけた場合は船員が連邦警察に知らせなければならないと法律に定められている。

最近のニュースでは、ルーラ大統領が死刑を宣告されていたイラン女性を亡命者として受け入れる用意があるとイラン大統領に伝える話題があった。移民や難民受け入れに寛容な国である一方で、歌手ジルベルト・ジルやジョゼ・セーラ( サンパウロ州知事)など今日の著名人が軍事政権時代にブラジルから亡命者となったこともある。ブラジルが時に応じて人道的支援に重きを置くのは、移民、難民、亡命者と名前は違っても、故郷を離れることを余儀なくされた人々の歴史がつまっているからかもしれない。


おおうらともこ
1979 年兵庫県生まれ。
’01 よりサンパウロ在住。
ブラジル民族文化研究センターに所属。
子どもの発達に時々悩み、励まされる生活を送る。




<ブラジル文学周遊>

マリオ・キンタナ

巧まざるユーモアとアイロニー 




いつかある日



私の馬はひとりでもどってくるだろう

そして いつものあのカフェの椅子にこしかけて

足をくんで、その日の新聞を読むことだろう

― ひとびとの驚きなど、どこ吹く風と ―




思わずにんまりしてしまいました。実際にそんなことが起ったらどんなに痛快だろう・・・。マリオ・キンタナ Mario Quintana の詩ってこんなのが多いんですね。平明でたいへんわかり易い。反対に本人の性格は大変複雑だったという話もありますが、自分自身を大きな子どもだと考えていた節があります。キンタナの詩の中枢をなすものは、この子どもの気持ちです。詩人の子どものような精神が魔法を作るんです。たとえば



信じるもの



門番のグリシニオ爺さんは

老いたねずみはコウモリになると信じてうたがわない

幼いころから培われた信仰だ

あなたの豊かな知識で幻滅させてはいけない

むじゃきな思いちがいこそ美しい

子どもの手からオモチャを取りあげるものではない

子どもが8 つであろうと、80 であろうと、だ。




もっとも、子どもを書きながらそこには大人の観察眼がありますけれどね。マリオの語録に「詩とは内なる永遠を我々に与えるものである」というのがありますから、永遠の子どもが自分だという自己認識があります。

『Ora bolas(これは、これは!)』というポケット・ブックを読むとマリオ・キンタナの素顔がよく分かります。サブタイトルが「マリオ・キンタナのユーモア」(L&PM POCKET 社)で、前書きをルイス・フェルナンド・ベリッシモが書いています。一寸引用してみましょうか。


『彼についてのひとくち話を二つ・・・。

あるとき、彼を車に乗せた。後ろの席に座った。リベラ街のジョズエの家の前に止まり、車から降りるとき、ちょっと難儀した。彼はすかさず「脚ってのは、無用の長物だね」。

もうひとつは、リオで常宿にしているコパカバーナのカナダ・ホテルだった。リオでイチバン好きなものは「トンネル」だといった。それは明媚な風光から逃れられるところだからという。

口癖は「Ora bolas(これは、これは!)」だった。若いときのことは知らないが、私がしりあったころには「Ora bolas」をひっきりなしに発していた。他の詩人たちと違って、彼には即興的なおかしさがあった。たぶん、Ora bolas・・・編者のジョアレスのようにいつかそれを蒐集する人間が現れ・・・それにしても、ジョアレスのような人間が現れてよかった・・・よ』



ここでジョアレスと呼ばれているのはポケット・ブックの著者。ジャーナリストなんですが、マリオ・キンタナに関するこぼれ話を拾い集めて本にしたわけです。このしたたかさ。ルイス・ベリッシモも大変な皮肉屋ですが、他人の口癖をメシの種にしているという揶揄があって、マリオにまけない即興的なおかしさがあります。

マリオ・キンタナは1906 年7 月30 日、南大河州アレグレテAlegrete に生まれました。笠戸丸がくる前に生まれたのだと考えれば年代のおよその見当がつきます。父親は薬剤師。幼年期ははずかしがり屋で病身。家の中に閉じこもっていましたから、「金魚鉢のオトコの子」とよばれました。識字の手ほどきは両親から。7 歳頃からフランス語を教えられます。家庭内ではフランス語を使用。13 歳で、コレジオミリタール(陸軍幼年学校)の寄宿舎に入ります。成績はいまいち。興味があったのはポルトガル語、フランス語、歴史。数学などは白紙でだしたようです。記録では健康を害して中退、となっていますが、どうなんでしょうか。軍事教練などのスパルタ教育には、体質的に不向きだったような気がしますけれど。

故郷にかえり家業の薬屋を手伝います。「ドットール」を夢見ていた父親が1929 年に、その前年には母親が死亡。詩人などどこの国でも親が望む職業ではありませんからね。日刊紙『南大河州』に就職。翌年には『コレイオ・ド・ポヴォ』紙に詩作を発表。

書くことは好きでしたが、当時、マリオ・キンタナは目標を失っていました。30 年の革命には突然祖国愛に燃えて志願兵になって、リオに6 ヶ月滞在。赤線区域の見張りをさせられたりしています。(次回に続く)


中田みちよ
青森県出身 在伯半世紀
第8 回内田百閒文学賞随筆部門大賞(2005)




<新・一枚のブラジル音楽>

カエターノ・ヴェローゾ 「粋な男」 

Caetano Veloso “Fina Estampa”



いつかカエターノ・ヴェローゾのアルバムを取り上げなければと思いながら、ずいぶんと時が過ぎてしまった。僕の音楽人生に多大な影響を与えたアーチストの一人だが、彼の代表的「作品」とか「アルバム」を挙げよと言われると、これ、というのが見当たらない。なぜというに、彼のアーチストとしての本領は、断片的かつ詩的な表現「行為」そのものにあるのであって、結果としてできた構築的な産物(つまり作品やアルバム)からはその魅力が感じられにくい憾うらみがあるからである。
それでも今回、彼のオリジナル作品によるアルバムの最高峰、と僕が思っている “Livro(リーブロ)”について書こうと思い立ち、昨夜聞き直してみたのだが、どうも現在の僕の心に響かないので、書くのを断念。やはり、皆さんに紹介するからには、今も僕が心動かされるようなものでないといけない。

ということで、この一枚、「粋な男」。1994 年に発表されたこのアルバムは、全曲スペイン語によるラテン名曲カバー集。偉大なシンガー・ソングライターであるカエターノの一枚として、カバーアルバムを選んだことに異論はあろうけれど、ここで聞かれるカエターノの歌唱のなんとみごとなこと。全15 曲、あたかも彼のオリジナル曲であるかのように、歌いこなしている。

このアルバムが発表された翌年であったか、サックスの渡辺貞夫氏の招きで、カエターノはこのアルバムの編曲者でもあるチェロのジャキス・モレレンバウン他、数人のサポートミュージシャンを伴って来日、東京は六本木で一週間にわたりライブを行ったのであった。僕がカエターノの演奏を生で聴くのは初めてではなかったが、そのショーのみごとな構成、バンドの演奏の充実度、なによりカエターノの艶のある演唱に魅了されたのだった。

その日は、彼の名曲「サンパ」や「ヴォセ・エ・リンダ」も歌われたが、レパートリーの中心はこのアルバムからのもので、衣装もこのアルバム・ジャケット同様、シックなスーツ姿できめて、彼独特の軽妙な踊りを交え、文字通り「粋な男」の演出であった。

初めてカエターノの音楽を聴くという僕の連れが、ショーの途中、急に僕の方を振り向き、興奮気味に、そして嬉しそうに「おい臼田、おまえも、まだまだだな!」と言ったのを覚えている。すかさず僕も興奮気味に「当たり前でしょう!」と返したものだ。苛立たしさでも悔しさでもない、素直な賞賛として僕は答えたのだ。まさにあの瞬間、そしてあの頃のカエターノは、彼の音楽人生のauge(絶頂)にいたと思う。自分の作品を歌おうが、他人の作品を歌おうが、そこにいる人々、聞く人々すべての心を、音楽のもつ美しさと喜びで満たしてしまう、そんな圧倒的な力がみなぎっていた。ステージ上の彼が発していた、あれこそが、真のアーチストのオーラというものだ、と今でも思う。

ショーが終わり、舞台袖に下がろうとするカエターノ達の前に突如渡辺貞夫氏がサックスを手に現れ、「彼は70 年代から、いつか日本に呼びたいと僕が思っていたアーチストです。この曲を彼に捧げたい」と前置きして、ジョビンの“Por toda a minha vida” を感謝の心をこめて演奏したハプニングは、僕が見て来た多くのライブの中でも最も美しいシーンのひとつとして思い出される。

話が、アルバムからショーへとそれてしまったが、このアルバム「粋な男」には、このショーの素晴らしさを追体験するに十分な美しさ、力があると、今聴き直して確認した次第である。

もうひとつ書き忘れてならないのは、このアルバムでキャリアの頂点に達したカエターノの、当時の最高の音楽パートナーであったチェリスト、編曲家のジャキス・モレレンバウンの仕事についてである。ジャキスは当時50 代前半のカエターノというアーチストの「円熟」を、みごとに編曲において演出して見せている。思うにカエターノという芸術家は、裸身のダンサーみたいな人で、歌い踊る自分に酔い、その自分を他人の目にさらすことの好きな人だが、一般大衆は必ずしも彼の裸身(のような芸術)を見て、心地よいとは思わないもので、ジャキスは、そのむき出しのダンサーに美しい音の衣装をまとわせて、一般の人々が安心して鑑賞できるように演出した、と言えばわかりやすいだろうか。実際、このアルバムでカエターノは、多くの新しいリスナーを獲得したはずだと思う。

この「粋な男」で花開いた、カエターノとジャキスの見事なコラボレーションが、次のオリジナル・アルバム“Livro” において、まさに結実することになるのである。今回は書くことを断念したが、このアルバムについてもいずれ書かねばならないだろう。なにせカエターノの「サージェント・ペッパーズ」※なのだから。

カエターノ・ヴェローゾ。ブラジル音楽の前衛を走り続けて来たこの偉大なアーチストも、もはや68の齢を重ねた。私見によれば、彼の創作活動は“Livro” を最後に、力を失い、風貌もまるで「良識」ある文化人のそれのようになってしまったが、今一度、美しく狂おしい音楽の花を咲かせてくれないものだろうか。あのむき出しの、裸身のダンサーのようなカエターノは、いったいどこへ行ってしまったのか。名士の集いを避け、時代におもねることなく、自分の芸術を地道に追究するという、アーチストの本道を行けば、まだ大丈夫。復活できるはず。頑張れ、カエターノ。僕をもう一度ファンにしてみせてくれ!





サージェント・ペッパーズ:ビートルズの残した名アルバム。正しくは「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」



臼田道成(うすだみちなり)
歌手。主にボサノヴァ、MPB を歌う。

2002 年からリオ・デ・ジャネイロに滞在。

現在、日本で活躍中。本年11 月よりブラジルにて音楽活動を行う予定。

ホームページ http://www.michinariusuda.com




<ブラジル映画を楽しもう>

私の小さな楽園 (Eu Tu Eles)2000 年



先日、「純喫茶磯辺」(吉田恵輔監督・原作・脚本)を見ました。その映画の中で店の主人が惚れ込んだウェイトレスのモッコ(麻生久美子)という女性が出てきます。従順で明るくって可愛いらしいがちょっと間抜けで雰囲気に弱く、誘われたら店のお客とも寝てしまう。しかも大馬鹿でそのことを主人とその娘の前で話してしまうという全く空気の読めない軽率な女。主人は彼女に対して真面目な期待と夢を持っていました。それは結婚を前提とした付き合いでしたが、彼女自身の「恥知らずの尻軽女」の告白に度肝を抜かれるや嫉妬を覚えるやらで一騒動を巻き起こす始末。彼女を理解出来ない元カレが遣って来て突然殴られたり、自分の娘に怒鳴られたりという風です。彼女は自分の言動が引き起こす結果も読めない、ましてや客観的に物事を考えるということが殆んど出来ない典型的なエピメーテウス的パンドラ女です。しかしながら、喫茶店が流行っていたのはそんな彼女の存在と客引きの魅力(吸引力)のためというのは実に興味深く、かつ面白い点です。

さて、今日の映画「Eu Tu Eles(邦題:私の私の小さな楽園)」(アンドルーシャ・ワディントン監督)は今紹介した「純喫茶磯辺」と比較してご覧になると面白さが倍増します。と言いますのは主人公が恥知らずの尻軽女といったくだりは同じだからです。違うのはモッコは日本人で女性的で受動的ですが、かたやダルレネ(今回紹介する映画の主人公の名前)はブラジル人で男性的で能動的と云う全く正反対の女性なのです。しかも驚く無かれダルレネの物語は事実、実際に今存在する北伯の実話なのです・・・。本来このニュースは北伯の田舎に住む男性達と女性達と云うことで比較されました。北伯の田舎に住む男性達は自称マッチョマンで何人かの愛人を囲っていますが、それぞれの女性はそれぞれの家に住んでいて同じ家の中には住んでいません。

この主人公ダルレネは3 人の男性達が同じ家の中に住み、しかも3 人の夫達との間に生んだ子供達が3 人一緒に住んでいるのです。まさに男の役柄を女のダルレネが、しかも男性を遥かに凌ぐ大きな包容力と偉大なる管理力で持って一つ屋根の下で生活しているのです(これこそC.G. ユングが待ち望んだ大母の元型なのではないでしようか…)。

では、いよいよ映画の物語をお話し致しましょう。 妊娠で大きなお腹を抱えた女、ダルレネ・デ・リマ・リニャレス(レジナ・カゼ)はロバに乗って田舎町の教会へ結婚式を挙げるべく出向きます。教会に着きますが結婚式を挙げる様子は全く無く、教会の周りには誰も居ません。新郎を待ちますが、来るのは暑さと苛立ちと過ぎ去っていく時間だけでした。痺れを切らしたダルレネは、新郎を始め家族や友人達、そして故郷の土地など過去の全てを捨てて都会への旅を決意すると、即そのままの姿で乗り合いトラックに乗りました。

その3 年後、彼女は長男ディマスと共に故郷の田舎町に戻って来ました。隣に住むオジアス・リニャレス(リマ・ドァルテ)は年をとっていましたが独り身で従兄弟と一緒に住んでいましたがダルレネを見初めて結婚します。その後、ダルレネは男子エドナルドを産みます。ところがその子の肌は茶褐色だったのです。白人である夫や義母はその生まれた色黒の子供を喜ぶどころか妻ダルレネに対し不信の思いでいました。ダルレネはその悲愴な空気に耐えられず家出を決行します。先ず最初の子ディマスをその父(町の有力者のようですが母親ダルレネを受け入れなかった)に返すと再び都会への旅を決行するのです。茶褐色の次男を抱き抱えて夫の家を背にして歩き出しましたが途中で夫に捕まり戻されます(ダルレネの気質は無口で即決断・即決行型です。北伯の一般的女性達は喋りまくるのが得意ですが、見通しが無いことばかりです。そんな彼女等とは違います。まさしく荒野に住む野生動物の勘とそれをベースにした行動力を持った女です)。

同じ家に住むオジアスの従兄弟、ゼジニョ・リニャレス(ステニオ・ガルシア)が彼女と親密な恋愛関係になりますが、オジアスは何も言わず、しかも知らないかのような素振りを保っていました。彼女にとっては2 人の夫が同じ部屋に居る様な家族関係でした(ジョルジェ・アマードの「ドナ・フロールと2 人の夫達」の上を行っちゃいますねぇ!)。やがてゼジニョとの間に青い目の可愛い白人の子エディナルドが出来ます。ゼジニョが嬉しそうに楽しくその赤子をあやすのですがオジアスにとっては面白く有りません。

彼女は毎日朝早くから夕刻まで男達に混じって砂糖きび畑で働き、尚且つ、僅かな日給を夫に貢ぎ、毎夜2 人の夫達に尽くすのでした(この2 人の夫達は外に出て働くことはありません。ここが彼女の夫達を支配する秘密かも…)。ある日砂糖きび畑で一緒に働くシロ・アントゥネス(ルイス・カルロス・ヴァスコンセロス)に恋心を抱いて自宅に連れ帰って夫達に紹介し一緒に住むことを依頼します。オジアスは同居にOK しますが、ゼジニョが反対します。結局オジアスの一言「ここは俺の家だ!」でダルレネの要求が通ります。次の日、ゼジニョはその2 人の仲を不信に思い砂糖きび畑に出向きます。そこで、やはり畑の中での彼等の愛の饗宴を目撃するのでした(これは力強き英雄ランピオンとマリア・ボニータを思わせるようなシーンです)。

ダルレネは3 人目の子をシロとの間に宿した時、何故かシロを誘うのではなく、ゼジニョを誘って月夜の下で交わり、恥らいも無くシロとのことを打ち明けます。そこでゼジニョも彼女によって授かった子供に感謝しているかのように、ふて腐れる事も無く、ジェラシーを顕わにもせず熱く交わるのでした。

その後、彼女がシロの子エディヴァルドを産んだ時、オジアスの母ラクェル・リニャレス(ニルダ・スペンサー)が彼に向かって厳しい表情で「Corno !(角:妻の浮気に遇った夫)」と強く言い捨て立ち去ってしまいました。

その言葉にショックを受けたオジアスは翌早朝、3 人の子供を馬車に乗せて認知所に連れて行き、自分の子として3 人を登録します。(「私の妻の産んだ子供達なのだから…!?」と。あるいは彼女を含めた彼らに対する復讐なのか!?「この子達はおれの物だァ!」と)。

さて、皆さんはこのオジアスの決断をどう理解しますか???



☆ 私の小さな楽園 Eu Tu Eles(2000 年作品)

監督 アンドルーシャ・ワディントン

出演ヘジーナ・カセー, リマ・ドゥアルチ, ステーニオ・ガルシア, ルイス・カルロス・ヴァスコンセロス


佐藤語
映画によるアート・セラピスト












<ブラジルの鉄人たち>
シェン・リベイロShen Ribeiro さん
(尺八奏者、フルート奏者、音楽プロデューサー、スタジオディレクター)


日本の山月が目の前に浮かび上がるかのように邦楽の古典名曲を尺八で演奏するシェン・リベイロさん。日本の伝統文化、さらには日本精神の真髄を求めて尺八と剣道の稽古にも励むシェンさんは、ブラジルの著名な音楽プロデューサー、スタジオディレクター、フルート奏者でもあります。最近の音楽活動ではボサノバを尺八、ピアノ、ベース、ドラムのコラボレーションで演奏するなど、ジャンルを超えた世界中の音楽の新たな魅力や可能性を披露してくれます。



Pindorama( 以下P): 尺八を含め、音楽を始めたきっかけは?

Shen ( 以下S):15 歳からピアノを習い始め、フルートは音色が好きで21 歳の時にサンパウロ市立音楽学院で学び始めました。フルートを始めてしばらくしてから尺八と出会い、尺八の音にはもっと惹きつけられるものがありました。

P : 尺八の音の魅力は何ですか?

S : フルートのお祖父さんのような感じで、音に深みがあります。尺八は長い間竹で出来たシンプルな構造が変わらないままであるのに、使い方や演奏される音楽が変化してきたことがおもしろいと思います。

P : 日本に渡ったきっかけは?

S : 日本の心や伝統文化をもっと深く理解したいと思い、ブラジルで尺八奏者の岩見梅旭先生から故山口五郎氏を紹介していただきました。東京芸大の邦楽部に籍を置きながら山口先生のご自宅でも尺八を学び、音楽関係の仕事をしながらより日本の伝統精神を追究したいという思いで、今日まで剣道にも励んできました。

P : 日本のコンサートで最も思い出に残るコンサートは?

S :1990 年に天皇陛下の誕生日を祝って琴古流竹盟社の20 人と一緒に明治神宮で演奏したことです。日本には様々な演奏会場がありましたが、他の会場とは趣を異にして、大都市の中で自然に囲まれたオアシスのような祈りの空間が忘れられません。

P : 演奏する際に心掛けていることは?

S : おいしい料理を作るような気持ちで臨むことです。

P : シェンさんご自身の演奏が収録されたマイベストの作品は?

S :『Peregrinatio~ 巡礼~』です。約2 カ月かけてスペインのサンティアゴ巡礼の道をポルトガルのリスボンから北上し、20 ヵ所の教会で録音しました。その内の9 ヵ所の演奏を収録したものです。

P : クラシックからMPB や世界の民族音楽まで、幅広いアーティストのレコーディングやセッションを手がける事に難しさはありませんか?またいつも心掛けていることはありますか?

S : 音やメロディーは違っても音楽は世界共通の言葉です。いつも作品をプロデュースする際は、子どもに接する時のように深い思いと愛情を込めて取り組みます。

P : シェンさんが手掛けた作品の中で特にお勧めの作品を紹介して下さい。

S: MPBのRosa Passosの『Romance』と『VILLA-LOBOS em PARIS』です。『VILLA-LOBOS em PARIS』はヴィラ・ロボスが1924 年にフランスで開催した有名なコンサートの曲を再現したもので、フランスの雑誌でも優良ディスク"Prêmio Diapason de Ouro" に選ばれました。



シェンさんの尺八演奏を中心にブラジルの名曲を収めたCD『Brasilian Music for the Shakuhachi』があります。まさに月夜でまったり日本酒( サケピリンニャ? ) を味わいたい…そんな邦楽の伝統とモレーナの海岸を歩く情景が美しくマッチした一枚です。

今後の日本とブラジルの音楽交流が楽しみになります。



 インタビュー日:2010/8/23



■シェン・リベイロさんプロフィール

1960 年、サンパウロ州ボトゥカトゥ市生まれ。

1987 年から日本で12 年間、人間国宝の故山口五郎氏に師事し、尺八奏者、フルート奏者として今日まで世界各地でコンサートやリサイタルを行う。1999 年には皇居の天皇皇后両陛下の前で演奏、日本やブラジルのテレビ・ラジオにも出演する他、ドラマのテーマソングやコマーシャルのバックミュージック、NHK「みんなのうた」の制作演奏なども手掛ける。ジャンルを越えた音楽アーティストのレコーディングに参加し、サンパウロ市内の音楽スタジオ『アソシアソン・クルトゥラル・カシュエラ!Associação Cultural Cachuera!』の音楽プロデューサー、スタジオディレクターとしても活躍中。2008 年には尺八との出会いを語るドキュメンタリー「Bambu Rei(日本語タイトル: 竹の世界)」を国際交流基金により発表、2009 年3 月には在サンパウロ日本国総領事館主催「尺八のレクチャーとコンサート」、5月には国際交流基金主催「尺八のマスタークラスとコンサート」を行った。



■シェン・リベイロさん出演のコンサート

『バッハ~チェンバロとフルート演奏~』

《日時》10 月28 日( 木) 午後9 時~

《場所》「Associação Cultural Cachuera!」Rua Monte Alegre,1094 - Perdizes - São Paulo

《電話》3872-8113/3875-5563

《入場料》R $20(60 歳以上と教育関係者はR $10)、12 歳以下は無料

《サイト》www.cachuera.org.br



取材・文=おおうら ともこ






Lilian先生の

ポルトガル語ワンポイントレッスン




“tempo(時間)” を使った表現

~橋をたくさん作りましょう~




劇作家のアーノルド・ウェスカーによると、「言葉とは、ひとつの場所からほかの場所へ安全に渡らせてくれる橋である」とのこと。

事実ブラジルで暮らしていると、ポルトガル語は友人、同僚、仕事のパートナーとの関わりを可能にしてくれる価値ある橋かもしれません。

ポルトガル語を話す外国人にとって大変なのは、自然に優雅に話すことですね。

大事なのは、「連語」の使い方を知ることです。「連語」はオクスフォード大学の文法学者シドニー・グリーンバウムが使い始めた用語で、単語の組み合わせによる数々の表現が言語の中に存在することを意味しています。

今回は、「tempo(時間)」という単語に関連した連語を見ていきましょう。



1.tempo livre : 二つの単語がいっしょになると、「仕事をしていない時間」を意味します。

例) O que você faz no seu tempo livre?

仕事をしていない時間は何をしますか?



2.ter tempo para :「自由に使える状態」を意味します(ter= 持つ、para ~ = ~のため)。

例) Eu não tenho tempo para estudar francês.

フランス語を勉強する時間がありません。



3.matar o tempo :待っている間、何かをする(matar= 殺す)。

例) O voo vai atrasar. Por isso, eu vou ler um livro para matar o tempo.

飛行機は遅れるので、時間つぶしに本を読みます。



4.a tempo :時間ちょうどに

例) O trânsito estava terrível. Mas, consegui chegar a tempo. 

渋滞がひどかったけど、なんとか間に合いました。



5.arranjar um tempo :時間を作り出す

(arranjar= 整理する、手に入れる)

例) Hoje, eu estou muito ocupado. Mas vou arranjar um tempo para estudar português.

今日は忙しいですが、ポルトガル語を勉強する時間をなんとか作ります。



いかがでしたか。今度はあなたが上記の表現を使って知り合いになったブラジル人と友情の橋をたくさん作る番ですよ。


リリアン・トミヤマ
USP(サンパウロ大学)卒、ポルトガル語学・言語学専攻。
ナンシー大学(フランス)卒、フランス語学・文学のスペシャリストでもある。





ひろこの

さんぱうろ ぐるめをっちゃー



☆ na cozinha(Brasileira)

R. Haddock Lobo 沿いにあるブラジル料理のこじんまりとしたレストラン。ランチメニューでは、Picadinho(picanha をサイコロ状に細かく切ってトマトなどの野菜と煮込んだもの)、Pastel、Feijoada、Couve、Farofa など代表的なブラジル料理がぎゅっと詰まったプレートが食べられます。鶏肉やカレー風味などのアレンジも。

各国で修業したオーナーシェフ、カルロスが提供するブラジルの様々な地域の料理は、どこか家庭的かつシェフの味。食べてみる価値ありです。

また店舗の2階スペースでは料理教室も開催しています。とっても気さくなカルロスは日本人が大好きで、日本人向けの料理教室も大歓迎。興味のある方はお問い合わせしてみてください(ある程度の人数が集まれば決行。頻度、曜日等は相談による)。





Rua Casa do Ator, 608 , Vila Olímpia - São Paulo

TEL : 3053-9300

http://www.pracasaolourenco.com.br



☆ Praça São Lourenço(Variada)

ラジオCM等でおなじみのレストラン。ランチビュッフェが充実していると聞き、行ってみました!席は外のテラスを予約。入ってみると… 木々や湖の自然に囲まれた庭園風でとても癒される空間。天気がいいとさらに気持ちがいいです。
料理はイタリアンテイストのいろいろなものが取り揃えられています。今回行ってきたのはランチで、サラダ、シーフード、ビーフ、パスタなどがビュッフェ形式で毎日食べられます(R $49 ~R $75)。中でも生牡蠣、ロブスター、エビのパエリアや、パウミットの丸焼きは特におすすめ☆ 

食べ放題なのが嬉しいです。チョコレートフォンデュを始めとするデザートビュッフェもあり、大満足! 夜はアラカルトで、薪のオーブンとオリーブオイルで焼くバカリャウなどがおすすめだそうです。

お庭には子供の遊ぶスペースもあり、家族でのんびり来るのもよさそうです。





Rua. Haddock Lobo, 955 - Jardins - São Paulo

TEL : 3063-5377 / 3063-5374.

Blog:http://blognacozinha.zip.net/




いわたひろこ


主婦。サンパウロにて新婚生活を満喫。






<観光>

海と歴史の町

パラチ&イーリャ・グランデ(アングラ・ドス・レイス)

PARATY & ILHA GRANDE (ANGRA DOS REIS)



サンパウロとリオデジャネイロのほぼ中間、イーリャグランデ湾に面した町、パラチ。18 世紀、内陸のミナス州で採掘した金を積み出す輸出港として栄え、今でもポルトガル植民地時代の建物が多く残されている。

静かな雰囲気を保つため町の中心部には自動車の乗り入れが禁止されており、石畳の街を心ゆくまで散策することが出来る。また、街中にあるおしゃれなレストランでは新鮮な魚貝を使った料理が出されている。

船でパラチ湾を周遊し、付近の小島や入り江を訪れるほか、沖で釣りを楽しんだり、スキューバーダイビング、海岸山脈のトレッキング等、色んな楽しみ方が可能だ。



《コロニアル風の建物が並ぶ街並み》


《パラチはピンガの名産地としても有名。町から少し離れた所にあるムリカーナ農園内の酒蔵では地ピンガを試飲することができる。》



アングラ・ドス・レイスはリオの少し手前の海岸に面したリゾート地で、湾沖には大小合わせて約360 の島がある。中でも有名なのがイーリャ・グランデ(「大きな島」という意味)で、この島には美しいビーチが多数あり、海外からも訪れる観光客も多い。

イーリャ・ グランデ北部のバナナウ海岸には沖縄出身の日系人が経営するポウザーダが数件あり、日中は遊覧船で近くの島々を巡ったり、ビーチで海水浴を楽しみ、夜は海に面したテラスでゆっくりと波の音を聴きつつ満天の星を眺めることができる。

このあたりの海は非常に透明度が高く、天気が良い時には岸近くでも魚の群れやウミガメの姿をはっきり見ることができる。
島内には島を一周するトレッキングコースがあり、美しい自然を満喫できる。



《近くの島々を巡る大型クルーザー》








<パサリニャー!!>

CHOPIM (ショピン)

学名: Molothrus bonariensis

和名: テリバネコウウチョウ

スズメ目ムクドリモドキ科




「ゆとり」は現代ではとても贅沢なものになってしまいましたが、都会でも普通に起こっているけれど、「ゆとり」-心のであれ、時間のであれ-がないと気にもつかない風景があります。

全く別の2種の小鳥が何やら戯れ合っている。よく見ると1羽が餌をねだり、もう1羽がそれにこたえ、餌を口に入れている。

「ゆとり」がもう少し増すと、餌をねだる方はきっと全身真っ黒であることに気づく。

「ゆとり」がいよいよ本物になると、餌をあげる方は様々な小鳥であることに気づく。

この全身真っ黒が「ショピン」。

このシリーズで紹介する鳥は今のところサンパウロでもかなり普通に見られる種ですから、こんな、はあ~?、と首をかしげたくなる光景が身近にあるはずなんです。

もうお気づきのことと思いますが、この光景は「托卵」の結果ですね。

3月号の「カモ」の中で少し触れましたが、日本ではカッコウがこの習性を持つことで有名ですが、ブラジルでは断トツでこのショピンです。

自分で巣を作るということをせず、もっぱら他種の小鳥の巣に卵を産みつけたら知らん顔を決めつける。卵を断りもなく托されたお母さん(仮親と呼びますが)としては、ちょっと首をかしげはするけれど、そこはそれ、母性本能のなせる技。きちんと抱いて卵をかえしたら、きちんと巣立ちまで育てる。これが冒頭の、「ゆとり」がないと出会えない光景です。

この程度なら、微笑ましい!、ですまされそうなお話ですが、このショピン、どこかの国の国民みたいに、放っておけばエスカレートする性質があって、たとえば1羽の雌が1つの巣に産む卵は1個だけですが、数ヶ月間の繁殖期に実に数十個の卵を産むのです。つまり数十個の、数十種におよぶ小鳥の巣に几帳面に産んで回るというわけ。ショピンの雌は1羽だけではなく、むしろあふれているわけで、それらがこぞってそんなことをしたら…。巣がショピンの卵であふれちゃう!なんてことが実際に起こっているんですよ。

仮親としても、数個ならまだ頑張れるけれども、数十個もの卵を托されるとこれはもう悲鳴をあげて投げだしちゃう。かわいそうなのはその仮親の本当の卵。

そうやって実の親に見捨てられるほかに、ショピンのヒナは実子よりも数日早くかえるという自然の妙があり、先にかえったヒナによって巣から投げ出されるという被害にも会います。

こういう仕組みによって、托される側の数十種のうちの数種の小鳥の数そのものが減っているという報告もあります。 厚顔極まりなく、話題の尽きないショピンですが、和名を見ると「テリバネコウウチョウ」。「照羽香雨鳥」でしょうか。確かに青黒い、メタリックな輝き。

雨の香る春先に繁殖期を迎え、群れで飛び交うことからの命名でしょうが、ちょっと風雅です。命名者は托卵の習性を知らなかったのだ、と思いたいです。




服部 敬也(はっとり ひろや)
カンポグランデ在住

hiroya@terra.com.br

http://blogs.yahoo.co.jp/momotusmomota







<ブラジル美術の逸品>

ヴィク・ムニース 「カラヴァッジョ後のナルキッソス」

2005 年 C プリント  254.0 × 182.9 cm

Vik Muniz “Narcissus, after Caravaggio” from “Pictures of Junk” series



「人類と映像の関係の進歩において、革命的なものではなく発展的なセンスを模索し続けている点において、私は自分自身をとても保守的であると見ている。」(ヴィク・ムニース)



左のアート作品に見覚えがあるなら、あなたはグローボのテレビドラマがお好きなのかもしれない。 5月から放送中のゴールデンタイムのテレビドラマ「パッシオーネ」のオープニング映像は、廃材を配置して登場人物を描いた“ 絵” をビデオで撮影したもので、世界的に著名なブラジル人現代アート作家のヴィク・ムニースが手がけたものだ。

これはムニース自身が2005 年に発表した「ピクチャーズ・オブ・ジャンク」シリーズにならったもので、同シリーズは、ゴヤやカラヴァッジョなど絵画の巨匠による、ローマやギリシャの神話上の人物や神々を描いた世界的名画を、廃材を配置することで模写し、写真で撮影したものだ。

ムニースは、様々な素材で、写真や絵画などを模写し、それを写真としてアウトプットする作風をほぼ一貫して追及してきた。素材は廃材であったり、キャビア、ダイヤモンド、あるいは砂糖であったりと、描くことの多様性を提示する。

なかでもチョコレートソースで描いた「ピクチャーズ・オブ・チョコレート」は97 年発表以来今に至るまで新作を発表しているムニースの名刺がわりの代表的なシリーズだ。ブラジル音楽ファンならば、マリーザ・モンチなどが制作したCD「トリバリスタス」(2002 年)のジャケットでその作風を目にしたことがあるかもしれない。

さてここに紹介する「カラヴァッジョ後のナルキッソス」は、タイトルのとおり、バロック絵画の先駆者と称されるカラヴァッジョの名画「ナルキッソス」を模写したもので、くず鉄置き場から集めた廃材を、サンパウロのスタジオで撮影している。プロジェクターで「ナルキッソス」を床一面に投影し、それをなぞって廃材を配置しているのだが、オリジナル作品は縦が2.5m と大きく、解像度の高い大型カメラで撮影されているため、視線は自ずとペンキの空き缶、ガスレンジ、古タイヤ、 パソコンモニターなど一つ一つのゴミに向かう。

過去の作品から追って見てくると、ダイヤモンドで描いたハリウッドスター、あるいはぬめり気のあるキャビアで描いた怪物など、画材には画題と相関性のあるマテリアルが選ばれている。神話の場面をテーマとしたこのシリーズをゴミで描いたことにムニースの遊び心が感じられ、また模写と廃材から再利用というキーワードも浮かび上がってくる。

余談だが、私には画中の「OFICINA」とポルトガル語で書かれた看板が目に付いた。その他ワインの5リットル瓶(ガラフォン)や鉄製タイムレコーダーなど廃材が集まれば地域性が浮き出るのが面白い。

昨年のMASP での大規模回顧展では、ムニースの20 年以上にわたる創作と模索を知ることができた。

今後も様々な画材で模写を続けていくのだろうが、次は何で描くのかがいつも気になるアーティストだ。



★ヴィク・ムニース(1961-)

サンパウロ生まれ。FAAP大学広告学科卒業後、1983 年に北米に移住。1990 年代から砂糖、ワイヤー、チョコレートなど様々な素材で模写し、写真で表現する手法を確立。2001 年、第49 回ヴェネチア・ビエンナーレにブラジル代表として出展。世界の著名な美術館で個展を開催しており、2008 年にはCB コレクション六本木で「This is VIK MUNIZ」展を、2009 年にはサンパウロ美術館で「Vik: A Retrospective」展を行っている。



文=仁尾帯刀(におたてわき)




<ピアーダで学ぶブラジル>




<摩訶不思議なブラジル経済>

BNDESの役割


今年は世界経済地図が変わった歴史的な年になった。GDP をみると中国がついに世界第2 位の経済大国になった。ある米証券会社は2027 年には中国がアメリカを抜いて世界第1 位の経済大国になると予想をしている。最近は経済に関わる講演会等に行くと中国抜きに世界経済が語れないといった様子である。ブラジルはというと、スペインを抜いて世界8位の経済大国にのしあがっている。因みに世界の経済規模のベスト8 は上位からアメリカ・中国・日本・ドイツ・フランス・イギリス・ブラジルである。

今回はBNDES(Banco Nacional de Desenvolvimento Econômico e Social、ブラジル国立経済社会開発銀行)について話そう。BNDES はその名の通りブラジルの開発銀行であるが最近その役割について色々議論されている。BNDES は2009 年と2010 年だけどなんと1,800 億レアル(およそ千億ドル)の融資を実施している。2009 年の中南米のシンジケーションローンマーケットの規模が500 億ドル程度であったことを考えるとこの融資規模が桁違いに大きいのが分かると思う。BNDES の融資の特徴は長期かつ低利の資金を供給する点であるが、その規模の大きさゆえにこの特徴の両方について賛否両論挙がっている。

まず、長期融資であるがブラジルにおいてレアル建長期融資が可能なのはBNDES だけと言って過言ではない。民間の金融機関においてレアル建の長期融資(およそ5 年を超える融資)は困難となっている。現在およそ22%の融資が期間3 年以上となっているが、そのうち71%がBNDES の融資であることを勘案するとBNDES が長期融資の多くの部分を占めているのがわかると思う。金融機関がレアル建の長期融資を可能にするには金融機関が長期資金を調達してくる必要があるが、このマーケットがブラジルには確立されていない。この問題を解消するためにブラジル政府はLetras Financeiras(LFs) という金融機関が社債を発行できる仕組みを今年導入し一定の成果は出ているが、それでも最短期間となる2 年の社債の発行がほとんどであり、最長でも6 年LFs がBanco do Brasil によって発行された程度である。また、その発行額もおよそ5 ヶ月の間で103 億レアルでありBNDES のインパクトに比べればまだ小さい。 この長期資金調達マーケットの確立のためにブラジル財務省はLFs を更に使い勝手の良いものに制度変更する(基本的にはセカンダリーマーケットの確立)ことを検討しており、その件に関して近々発表されるとのことである。

次に低利の融資であるが、BNDES はTJLP(Taxa de Juros de Longo Prazo)という特別のレートを基準にしてこれに融資スプレッドを加えた金利で融資している。現在TJLP は6%であるが実際にはSELIC 金利(ブラジル基準金利、現在10.75%)の調達コストがかかり、この差額はブラジル国庫の負担となっている。民間金融機関もSELIC 金利とほぼ同等の調達コストがかかることを考えると、この4%近い金利の差ではBNDES と競争できない状況であり、この金利の絶対的な差によりBNDES は民業を圧迫していることになる。将来的(2016-2020 の間)にはTJLP 金利をSELIC 金利に近づけることを計画しているとのことであるが、暫くは民業圧迫が続く。

また先に述べた国庫の負担の部分であるが、これがBNDES 賛否の論点の1 つでありBNDES が融資すればするほど国庫の負担が大きくなるのである。マンテガMantega 財務大臣の説明ではこれらの投資によって国内総生産(GDP)が総額2290 億レアル増加し(その結果、税収も増加)、またBNDES の利益も増加し合計で790 億レアルの収益が出ると計算してその正当性を主張している。

マンテガ財務大臣は今後はBNDES の融資規模を縮小すると言っているが、それよりも重要なのは民間金融機関も長期融資の出来る環境構築であろう。ブラジルは今後3 年で1.3 兆レアルの投資が必要とブラジル政府は試算しており、明らかにBNDES だけではカバーできるはずもなく、民間からの融資・投資が絶対不可欠になる。その為には金融機関が長期の資金を調達できる仕組みとマーケットを早急に育てること、BNDES が融資するときは民間銀行も協調することが必要等の民間銀行参加を促す仕組みを作ることが今後持続可能な成長を続ける上で重要になるだろう。今までは早急に経済成長を進めること、世界的な経済危機対策としてBNDES から大量の資金を供給したが、BNDES が余りに大きくなりすぎ、民業を圧迫しすぎることは今後を展望すると賢い選択ではないかもしれない。




加山雄二郎(かやまゆうじろう
大学研究員




<ブラジル社会レポート>

気が付けば新型差し込みプラグ


「電気屋に行ってみたら、いろんなメーカーの機器で全部同じメーカーのケーブルなんだよ。あれはパテントか何かで、政治的に決定されたんじゃないだろうか。しかも、新型→ A 型接地極付→ C 型で、2 個もアダプターを噛まさなきゃいけないから無駄も多い。ここはひとつ、その辺の裏事情を調べてくれ!」

「了解。こちらスネーク、ABNT のサイトに潜入、規定を入手した」

ということで調べてみました。ABNT というのは、日本のJIS に相当する団体で、ブラジル技術基準協会のこと。ブラジル技術規定第14136 号といっても、その国際規格を採用しているのは現時点で、2010 年1 月1 日からこの新型差し込み器具に全国的に統一したブラジルのみというお寒い状況です。

仕様書を見ると、最初にアースが接触するようにプラグ受け内部の構造が決められていたり、奥まっているために差し込み途中で感電する可能性がない、誤って片方だけ接続するようなことができない(いったい誰がそんなことをやるんだか)、10A と20A があり、20A のプラグを10A のプラグ受けに挿せない(20A が太いため)、アース線がなくなる(電源ケーブルに統合される)といった利点があるそうです。国民からも不満が噴出しているためか、ブラジル度量衡院(Inmetro)はこの新型についてのFAQ をサイトに設けています。Inmetro は上記のようなセーフティー仕様を謳うとともに、「既存の機器でも80%は使用可能」

だし「新型のプラグ受けにすぐ交換できるよ」と言っています。このFAQ はなかなか秀逸で、「なぜ国際規格で統一しなかったのですか?」という質問には、「そもそも国際的に統一されていませんし、統一できません。形状は各国が独自に決めているのが現状決定したんだよ)」という、斜め上の回答です。

個人的には、「世界各国から人が集まったブラジルらしく、機器も世界各国から集めてきて利用可能っていいなー(例えばコンセントに限らず、テレビはNTSC もPAL も利用可能)」と思っていたので、今回の措置は安全対策(接続器具への接地極の導入)にかこつけた平行輸入品(密輸品)対策が主眼ではないかと思っています。事実、NBR 14136 の施行と同時に、この規格を満たさないプラグを採用している機器の輸入は違法になりました。

従来のA 型プラグの機器を新型のプラグ受けで利用するのもちょっと面倒なのですが、それ以上に面倒なのが、冒頭のような新型プラグを採用した機器を旧型のプラグ受けで利用するケースではないでしょうか。とくにモバイル機器では、変換器の2 段重ねというのはある意味で無駄に無駄を重ねているわけで、グラムを競うモバイルの世界なのに使用とは無関係のお荷物をしょい込むという悲惨な状態になります。この問題は今後、新型のプラグ受けが普及するのに伴って、とくに日本から来られるビジネスマンが注意すべき部分になりそうです。




美代賢治(みよけんじ)


ニュース速報・データベース「B-side」運営。
HP : http://b-side.brasilforum.com




<サッカー>


クラッキ列伝
第1 4 回ジノ・サニ




サッカーは芝の上のチェス――。誰が言ったか、この言葉はこの球技が持つ特性をズバリ言い表している。ボールテクニックや身体能力といった一目で分かる凄味でない、いわば玄人好みの才能で世界の頂点に上り詰めた偉人がいた。

今でこそ、母国はもちろん、海外の名門で活躍するスター選手は数多いが、海外移籍が主流でなかった60 年代にイタリアなどで活躍したジノ・サニだ。

ボランチで主にプレーしたジノのプレースタイルは、自らや味方のポジショニングの概念を最大限に生かしたクレバーなものだった。

ファルカンやジェルソン、クロドアウドら数々の優れた攻撃力を持つボランチを輩出してきた王国にあって、中盤の底で文字通り「ハンドル( ボランチ)」を握った先達の一人ジノ。「オレは相手をマークする必要がなかった。だって、相手がオレをマークしないといけないんだから」。そう、うそぶく言葉が嘘に聞こえないほど、ピッチで見せた存在感は絶大だった。

1932 年生まれのジノは、生まれついてのコリンチアーノだったが、最初のプロクラブはパウメイラス。ただ、天才にも挫折はある。当時、スターが揃ったパウメイラスでは出番がなく、中堅クラブを転々とした後にサンパウロへ。

キャリアの多くをボランチとして過ごしたジノだが、サンパウロでブレークした57 年までは背番号10 を背負い攻撃的MF としてプレー。同年にブラジル代表に招集された際も、当初はジジーニョの控えとしてである。

54 年から59 年まで所属したサンパウロでは通算322 試合にプレーし、ゴールネットを揺らした回数は実に108。58 年のW 杯はレギュラーとして初戦を戦いながらも、負傷の影響で控えに回る憂き目を見た。

ただ、王国初の世界王者の一員の実力は世界が既に認めていた。59 年にアルゼンチンの名門、ボカ・ジュニオールスに移籍すると61 年にはイタリアのAC ミランへ。「マエストロ( 巨匠)」の愛称で、ミラノっ子に愛されたジノは、シンプルにボールをさばく自らの特長を最大限に発揮する。

「オレは世界中のどこででもプレースタイルを変えなかった。あまり走らなかったけど、ボールや味方を走らせたんだ。唯一変えたのは口髭を剃ったことだけさ」。

イタリアでも国内リーグと欧州王者を獲得したジノには62 年W 杯でイタリア代表としてプレーする誘い( 当時は可能だった) もあったが、きっぱり拒否。

キャリア終盤となる32 歳でコリンチャンスに移籍すると、頭脳的なプレーは肉体の衰えを十分にカバーし、34 歳にして1966 年W 杯メンバー候補の45 人入り。本大会行きは逃したが、68 年の現役引退直前までベテランの凄みを見せつけた。

引退後も母国のみならず、ウルグアイや日本でも指導者として活躍したジノ。まさに「エトランゼ」として生きることを良し、としたサッカー人生だった。





見所満載のブラジル全国選手権




W 杯による中断期間を終え、再開されたブラジル全国選手権。世界で最も拮抗したリーグは、中断前よりも補強に力を入れたチームが増え、見どころ十分。ポルトガル代表のデコが加わったフルミネンセを筆頭に好チームが目白押しだ。




欧州リーグに「搾取」される構図が続いた数年前は、8 月の移籍登録期間が終わると各チームともに主力を引き抜かれるのが日常茶飯事。チーム力が低下するクラブが目立ったものの、リーマンショック後の欧州クラブにかつての圧倒的な財力は残っていない。

対照的にロナウドの復帰後、トレンドとなった大物選手の復帰は今季も変わりがない。

リーグ前半はクラブ設立100 周年の節目を優勝で祝いたいコリンチャンスが独走するかと思われたが、急浮上してきたのが1984 年以来、2 度目の優勝を目指すフルミネンセだ。

2006 年からサンパウロで前人未到の3 連覇を成し遂げた「優勝請負人」ムリシー・ラマーリョ率いるフルミネンセは、7 月にサンパウロからかつてのエース、ワシントンが、さらにポルトガル代表のデコが加わり、その攻撃陣は16 節終了時で最多得点。長丁場のリーグ戦を得意とするムリシーだけに、大崩れはないだろう。

魅惑の攻撃陣という点では引けを取らないのがサントスか。一時は欧州移籍が確実視されていた天才ネイマールも残留が決定。コパ・ド・ブラジル優勝を機にロビーニョとアンドレの両FW が移籍したものの、新生ブラジル代表でデビューしたネイマールとガンソが健在の上に、欧州でくすぶっていたFWケイリソンがレンタルで加入。サンパウロ州選手権とコパ・ド・ブラジルの二冠を制している攻撃は、必見といえる。

「体が永遠の休暇を求めている」と今季限りの引退も匂わせているロナウド擁するコリンチャンスは指揮官のマノ・メネーゼスがブラジル代表を率いることになったため、クルゼイロからアジウソンが就任。タレントは揃うだけに、5 年ぶりの優勝は射程圏内だ。

W 杯でも活躍したウルグアイ代表のアブレウとコカイン使用による出場停止から復帰したジョブソンらを擁するボタフォゴも好調。コパ・リベルタドーレスを制したインテルナシオナウも、MF サンドロが移籍したものの逆にラファエウ・ソビスやチンガらを獲得し、リーグ屈指の層の厚さを誇っている。

母国復帰は選手のみならず、パウメイラスにはフェリペ・スコラーリが監督に就任した。すでに「目標はリベルタ圏内」と優勝は諦めたかのようなフェリペ監督だが、「魔法使い」の愛称で知られるチリ代表MF のバルディビアが新たに加入するなど着々と巻き返しを狙う。

W 杯の中断期間中にチーム力がガタ落ちし、MFエルナーネスが移籍したサンパウロや立て直しに向けてクラブの英雄、レナート・ガウショが就任したグレミオ、昨年の得点王ジエゴ・タルデリやジエゴ・ソウザらタレントを擁するアトレチコ・ミネイロといった出遅れ組の巻き返しも同様に、見逃せない。




下薗 昌記 (しもぞの まさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002 年にブラジルに「サッカー移住」。約4 年間で南米各国で400 を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などに執筆する。現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。



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