2010年5月13日木曜日

ピンドラーマ2010年4月号その4

<クラッキ列伝>
第9回 アデミール・ダ・ギア


叔父から甥っこへ、父から息子へ、確実にサッカーの才能を受け継がせてきた一族がある。リオデジャネイロの古豪バングーでクラブ史上最多となる215 点を記録したラジスラウ・ギアを叔父に持ち、王国史上でも屈指のCB との呼び声高いドミンゴス・ダ・ギアを父とするアデミール・ダ・ギア。
父ドミンゴスも1938 年のW杯で三位に輝き、当時としては珍しいボカ・ジュニアーズでのプレーも経験した名選手だったが、そのドミンゴスは44 年にコリンチャンスに移籍した際、まだ2 歳になったばかりの愛息を抱いて、周囲にこう公言した。
「この坊主が、ギア家の未来なのさ」。
ペレもジーコもやはり、自らの息子たちをプロサッカーの道に進ませたものの、いずれも親の七光り的な注目で終わっていたがギア家のDNA は本物だった。
当初、父や叔父―三人の叔父がプロだった―が生計を立てる手段としたサッカーには興味を示さず、7 歳で水泳を始めたアデミールだが、やはりギア家に縁が深いバング―でプロの門を叩くと、父以上の才能を示し始めた。
エレガントなプレースタイルと戦術眼、長身からは想像もつかない柔らかなドリブル、そして後に「ヂヴィノ( 神聖)」の愛称さえ送られたそのカリスマ性で61 年にパルメイラスに移籍すると77 年の引退まで一貫して、名門の象徴として輝きを放ち続けたのだ。
獲得したタイトルは二度の全国選手権と五度のサンパウロ州選手権など数多く、「アカデミア」と呼ばれた60 年代のパルメイラスの地位を築き上げたのは紛れもなくアデミールの存在だった。アデミール率いる緑色の名門は当時の王国でも最強クラブの一つだった。実際、CBF( ブラジルサッカー連盟) の前身に当たるCBD は、65 年9 月7日に行われたミネイロンスタジアムのこけら落としの際、パルメイラスをそのままブラジル代表とし、ウルグアイ代表との親善試合に挑ませたほどで、実際にパルメイラスが3-0 で完勝している。
そんな緑の背番号10 も、セレソンでは不遇をかこつ。65年に初めて代表に招集されながらも、当時今以上に代表招集に影響力を持ったリオのメディアがジェルソンを推したことから、アデミールは74 年までカナリア色のシャツから遠ざかったのだ。最初で最後の74 年W杯でも、ザガロの不可解な起用で出場機会はポーランドとの三位決定戦のみ。途中交代を強いられたアデミールは結局、父に及ばない4 位でW杯を終えている。
「セレソンで機会が少なかったことに不満はない。だってサッカーは僕に多くの喜びを与えてくれたから」。パルメイラスで不滅の金字塔となる901 試合に出場した天才のサッカー人生に一片の悔いもない。

筆者 下薗 昌記 (しもぞの まさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002 年にブラジルに「サッカー移住」。約4 年間で南米各国で400 を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などに執筆する。現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。



<サッカー>
初めての日本人監督が誕生


長いブラジルのサッカー史において、初めての「日本人」監督が誕生した。サンパウロ州選手権を戦うパウリスタの監督に2 月、就任した元日本代表FW の呂比須ワグナーだ。「いつかはJ リーグで監督をしたい」。監督として新たな挑戦が始まった。
87 年7 月、元ブラジル代表DF のオスカールとともに、日本に渡った18 歳当時、日本語は言うまでもなく話せず「サムライがいると思っていた」呂比須だったが、日本サッカーリーグの日産自動車( 現横浜F マリノス) を経て、柏レイソルや湘南ベルマーレなどJ リーグで活躍。日系二世と結婚後、97 年には日本に帰化し、W杯フランス大会アジア予選で日本の初出場に貢献し、帰化したブラジル人として初めて日本代表の一員としてフランス大会に出場した。
2002 年に現役引退後、03 年からジェトゥーリオ・ヴァルガス大学でスポーツマーケティングなどを修めたり、コーチ修業をしていた当初、指導者の道に進むことを躊躇していたという。05 年から2 年間はパウリスタのヘッドコーチに就任。その後は日本とブラジルを行き来しながらサッカー教室やTV のコメンテーターを務めていたが「僕が日本とブラジルで学んだ経験を伝えないのはもったいない」と昨年末、やはりパウリスタのヘッドコーチに再び返り咲き、本格的に指導者への道を歩み始めていた。
運命の転機となったのが今年2 月中旬のこと。アウヴェス監督の解雇を受けて、同月20 日のポルトゲーザ戦で暫定監督ながら、ピッチサイドに立った呂比須は1 対2 で敗れたものの、その好采配を評価され、ついに正式に監督に就任した。「チームが機能し始めると、自分も選手と一緒に同じボールを追っているような感じがする」。
コパ・ド・ブラジルで優勝した経験もある創立101 年の伝統あるクラブながら、就任当初の順位は20 チーム中降格圏内の16 位と瀬戸際に立つだけに「二部に絶対落としてはいけないという責任の重さにもの凄いプレッシャーを感じているのも事実」( 呂比須)。
来日前にはサンパウロFC の一員としてサンパウロ州選手権でプレーした経験もあるが、やはり指揮官としての重圧は独特だと呂比須は言う。
FW 出身だけに本来は攻撃的なスタイルを志向するが、今大会では「就任の段階で残り9 試合しかなくて失点が一番多い。現実的に考えると二部降格を避けるためにはまずしっかり守備をしてカウンターで戦うしかない」となりふり構わない戦いで挑むつもりだ。
暫定監督としてのデビュー後、全て1 点差の負けで5 連敗と降格が現実となりかけたが3 月21日に初勝利を挙げると3 日後のコリンチャンス戦も連勝。降格圏脱出も視界に入ってきた。
日本国籍を持つと同時に今でもブラジル人としての「ワグネル・ロペス」としてのアイデンティティーも併せ持つが本人は「僕はこんな顔をしているけど、日本人。ブラジルの名門とJ リーグからオファーを受ければ、間違いなく日本を選ぶ」とキッパリ。現役時代同様、第二の母国での成功を夢見ている。

筆者 下薗 昌記


<開業医のひとりごと>
〜今月のひとりごと『黄熱よりデング熱のほうがかかりやすいぞ』〜



現在ブラジルでは去年より「感染症危険情報が発出されています」。外務省の海外安全ホームページや在サンパウロ総領事館発信の情報です。内容はデング熱と黄熱の流行についてですが、いろいろ問い合わせがありましたので今月はこのテーマでひとりごとします。
疾患の説明や症状は外務省のHP に詳しくあります(註1)のでそちらをご覧ください。確かにどちらもブラジルでは発症例が増えています。サンパウロ在住の邦人に関心が高いのは黄熱のようです。というのは、致死率の高い疾患で、2008 年頃までサンパウロ州では安全とされていたのが一部予防接種勧告地域になってしまったからでしょう。黄熱は予防接種が有効な感染症なので、じゃあ全員にワクチンを打ったら終わりだろうと思われるのですが、非常に副作用の強いワクチンなのでそうは問屋が卸しません。結論からいうと、絶対に接種するべき以外の方はワクチンを使わないほうがよいと考えます。右に掲げたサンパウロ州の地図の左側(明るい色)に①在住(註2)、または、②ブラジル各地の黄熱予防勧告が出ている地域(註3)の森林部や農村部に出張や旅行をする、この二つの状況のみ予防接種が必須だと考えられます。本連載読者の皆さんのほとんどは該当地域に在住されていないので出張や旅行が対象になりますが、「行くかも知れない」程度でなく「実際行かれる」場合予防接種を受けてください。現地に入る10 日前に済ますのをお忘れ無く。医療の現場では黄熱以上にデング熱が気になります。その理由は発症数が圧倒的に多く、サンパウロ市内でも罹患可能であるからです。

『黄熱もデング熱もネッタイシマ蚊によって媒介されるウイルス性の感染症なのだな。黄熱のほうが致死率が圧倒的に高い。リオで黄熱の流行で渡航禁止になるなど第二次世界大戦前までブラジルの都市部でもかなり黄熱が多かった。都市部で壊滅できたのは実はワクチンのお陰ではなく、蚊の駆除がポイントだったのだな。ブラジル人ではOswaldo Cruz やAdolfo Lutz など現在感染症系研究所の名称になっている医師達が活躍したのだ。これにより黄熱のウイルスは森林部に追いやられたのだが、蚊は今度は都市部で流行するデングを運ぶようになった訳だな。これには都市部の拡大と地球温暖化のため蚊媒介性疾患の分布拡大の可能性があるという学説がある。どっちにしても、蚊に刺されるのを防ぐのが予防の重点になる。つまり:①蚊の多い所に行かない(ブラジル沿岸部、気温が高いので多い)②刺されないようにする(虫除け剤を塗布あるいは服用、服装、蚊が食事をする時間帯に外出しない)の二点だろな。絶対数としてデング熱のほうが感染しやすいぞ。ちゃんと治療すればまず助かるので、海などにいって、蚊にさされて、1 週間ほどしたら高熱、頭痛などがでるようであればすぐに受診しましょう。』


*1 http://www.pubanzen.mofa.go.jp/info/info4.asp?id=259
*2 左側の市町村名リストは次のサンパウロ州健康局の勧告を参照:ftp://ftp.cve.saude.sp.gov.br/doc_tec/
*3 Acre, Amapá, Amazonas, Pará, Rondônia, Roraima, Distrito Federal, Goiás, Tocantins, Mato Grosso do Sul, Mato Grosso, Maranhão, Minas Gerais, São Paulo(一部), Bahia, Paraná, Piauí, Santa Catarina, Rio Grande do Sul.


<ブラジルの民間療法>
糖尿病に効果のある薬草( 2 )


☆ペドラ・ウメ・カア(PEDRA-UME-CAÁ またはPEDRA-HUME-CAÁ)
学名:Myrcia sphaerocarpa(ミルキア・スファエロカルパ)、フトモモ科ミルキア属
原産地:ブラジル
形態:潅木
繁殖方法:種子
主にアマゾン地域に分布する。
「植物性インシュリン」として有名で、糖尿病の治療に利用される。
インディオの知識に由来する。
葉や根を煎じて飲用する。






出典:IRMÃO CIRILO (Vunibaldo Körbes) “Plantas Medicinais”
(1971 年初版、現在第63 版を数えるロングセラー)
資料提供:Nassui Alimentos











やっぱり気になる
ブラジルの旧宗主国ポルトガル
第二弾:グルメ編


ポルトガルの主な見どころをご紹介した先月号に続き、お待ちかね(!)“ ポルトガルの食” についてです。旅行経験ある日本人は口を揃えて、ポルトガルは食事が最高!日本人の口にあう!魚料理が豊富!・・・と興奮気味に語るが、実際はいかに?

■絶対!おすすめ料理
リスボンに着いて、まず何を食べるか・・・限られた旅行期間、どうしたって本場のポルトガル郷土料理にありつきたい。ガイドブックをめくってみる。ホテルの人に尋ねてみる。街を偵察してみる・・・
今回、筆者は2 週間かけて約30 件のレストランを試したが、なんのことはない、現地の人で込み合っている店が味も確かだ。
ポルトガル料理は、かつての植民地から持ち帰った食材を取り入れていたり、シナモンやサフランなど、ポルトガルを一時期支配していたイスラム圏の影響もみられ、他のヨーロッパ諸国とも異なる食文化を持っている。地域によっては地元の料理があり、同じメニューでも調理法が違っていたりする。魚料理も肉料理も多様で、噂通り美味しいものばかり-確かに“ 美食の国” だ。特におすすめのメニューを紹介したい。

○バカリャウ
魚料理が豊富なポルトガル料理であるが、その筆頭はブラジルでもお馴染みのバカリャウBacalhau(干し鱈の塩漬け)。最近はブラジルほどではないにしろ、バカリャウの値段が上がっているそうだが、やっぱり身近な食材で調理法も限りない。玉葱やトマトなどと一緒にオーブンで焼いた“Bacalhau
assado”、シンプルに茹でる“Bacalhau cozido”、玉葱やフライドポテトをあわせ卵とじした“Bacalhau à brás” などが定番メニュー。同じ魚とは思えない異なる味わいでそれぞれおいしいが、特にポルトガル産オリーブオイルをかけた肉厚のBacalhau cozidoは、バカリャウそのものの味、食感に格別の感動を与えてくれる。

○リゾット
お米のない食事に物足りなさを感じるのは日本人だからだろうか?海老、イカ、アサリなどが入っている海鮮リゾット“Arroz de Marisco” やアンコウのリゾット“Arroz de Tamboril”、タコのリゾット“Arroz de Polvo” はそんな日本人にとって嬉しいメニューだ。海鮮のだしに刻んだコリアンダーがアクセントになり味わい深く、胃にも優しい。トロっとした食感のアンコウのリゾットは特におすすめ。




○ポルト風モツ煮込み
“Tripas à moda do Porto” -第二の都市ポルトを訪れたら、ぜひ試してもらいたいのがこのメニュー。先に挙げたバカリャウやリゾットが定番メニューであるのに対し、この料理はポルト地方の郷土料理である。ハチノス(牛の胃)と白インゲン豆を煮込むあたり、ブラジルの“ ドブラジーニャ” と似ているが、ポルト版の方がシンプルであっさり味か。15~ 16 世紀の大航海時代、船出する人々に牛肉を託し、ポルトの住民は残された臓物を食べて飢えをしのぎ、都市の繁栄を支えたとか。


○鮨
日本料理屋のお鮨が美味しい・・・これはポルトガルの食で一番の驚きかもしれない。リスボンには日本料理店が数軒ある。この15 年間で多くの店が入れ替わり、今も残る老舗は「盆栽Bonsai」と「彩Aya」の2 軒だ。鮨ネタはマグロ、トロ、カレイ、スズキ、タイ、イカ、ウニなど種類も豊富で、味は日本の高級店より格上?と思うほど。ノルウェーから空輸のサーモン以外は寒流が流れるポルトガルの近海もので、冷凍保存は一切していないそうだ。
「盆栽」のオーナーは、在ポ50 年を超える横地森太郎さん(75 歳)。横地さんは1958 年にポルトガル陸軍士官学校の水泳指導教官として招聘され、40年間教官を務められた。ポルトガルの水泳監督として5 回オリンピックに出場し、息子のアレシャンドレさんもオリンピック選手として活躍した。縁あって、横地さんに陸軍士官学校を案内してもらった。士官学校の校長(陸軍大将)も挨拶に現れ、教え子の教官達は、背筋を伸ばして歩く横地さんに直立不動で挙手の礼をする。横地さんは知られざる日本の英雄だった!

■ポルトガル・スイーツ
ポルトガルはお菓子の国でもある。数々の伝統菓子があり、その中には日本に南蛮菓子として伝わったカステラ、ボーロ、コンペイトウの原形となる菓子もある。ポルトガル人はブラジル人同様甘いものが大好き。街中にあるパステラリアを覗いてみよう。

○パステウ・デ・ナタPastéis de Nata とケイジョアーダ Queijada
この二種はポルトガル全土で見かける定番菓子。パステウ・デ・ナタは日本でも一時流行ったエッグタルト。ブラジルでもパダリアでお見かけするが、より濃厚で繊細な味がするのは気のせい?!ケイジョアーダはチーズタルトで、リスボン近郊シントラの名物。






○パン・デ・ローPão de ló
カステラの原形と言われる菓子。地方により大きさや焼き具合が異なるが、中身がまだ半生でとろけるタイプがおすすめ。








○モロトフ Molotofe
メレンゲにカラメルを混ぜ蒸焼きしたもの。数あるポルトガル菓子で筆者が一番感動した一品。パステラリアによって砂糖や塩加減が異なるが、リスボン・カモンイス広場そばの老舗カフェ“Café a Brasileira” のモロトフは絶品。






<番外> 国立パン博物館
パン好きな方、時間があれば訪れてほしいのが内陸の街セイアSeia。セイアはエストレーラ山脈の入り口の街で、ポルトからバスで4 時間、コインブラから1 時間半に位置する。ガイドブックでも軽く触れる程の街だが、丘の上に突如現れる立派な建物は観光客で一杯。同館は2002 年にオープンした国立博物館で、パンの歴史、製造過程、ポルトガル各地のパンを紹介する展示室があるほか、レストラン、バール、図書室、ショップなども併設している。サンパウロでも「良いパダリアのオーナーは大抵ポルトガル人」と言われるだけあり、ポルトガルのパンのこだわりを知ることができる。レストランのメニューはポルトガルの伝統料理でコースのみ。パン12 種・前菜22 種のビッフェ、メイン2 種(魚・肉)、最後にデザート12 種のビッフェで、大人一人17.5ユーロ。地元名産のエスプマンテも頼みたい。

☆国立パン博物館(Museu Nacional do Pão)
Quinta Fonte do Marrão 6270 Seia, Serra da Estrela –Portugal
開館時間:10 時~ 18 時(金・土曜は22 時まで)・月曜定休
入館料:2.5 ユーロ(一般料金)
URL:http://www.museudopao.pt/

ポルトガル旅行記は今回のグルメ編で終了。おいしいものを書き連ねましたが、「今週末ポルトガルへ行こう!」というわけもいかず・・・ピンドラーマ来月号では連載中の『各国移民レポート』でポルトガル移民を特集します。サンパウロで楽しめるポルトガル料理も紹介予定。乞うご期待!

筆者 山本綾子(やまもとあやこ)
お茶の水女子大学卒(生活文化学専攻)
旅経験30 ヶ国 ブラジル在住

2010年5月12日水曜日

ピンドラーマ2010年4月号その3

<観光>
エコツツリズモを満喫!!ボニート BONITO


約20 万平方kmの広さを誇る世界最大の湿原パンタナール。パンタナールは北部と南部では異なった表情を見せるが、そのパンタナール南部に位置する町ボニート(ポルトガル語で「美しい」という意味)は、その名の通り美しい自然が残された所だ。中でも、透明度の高い美しい川と湖、洞窟や岸壁などの自然美が有名で、近年エコツーリズムの場所としてブラジル国内外から多くの人を魅きつけている。

◎美しく澄んだ清流で川下り


 ボニートの魅力は湧き水を源水とするその驚くほど透明度の高い川だ。水の透明度の秘密は、この地域の川に豊富に含まれている石灰岩が水の汚れを濾過し、浄化する作用があるため。

ボニートには世界有数の透明度を誇る川が多くあり、好みに合わせて川やコースを選ぶことができる。中でもお勧めのコースはスクリ川 Rio Sucuriでシュノーケリングをしながら川を下るフローティングツアー。ウェットスーツ、水中メガネ、シュノーケルを着用して、ゆったりと流れる渓流に浮かびながら川を下っていく。澄み切った川の中に、現地の淡水魚ドラード、ピラプタンガ、ピアウ、パクー、コリンバス、ピンタードなど、まるで水族館のように色鮮やかな魚の群れを間近に観ることができる ( コース:約2Km/ 所用時間:1 時間)。
ほかにも、自転車をレンタルして大自然の中をサイクリングしたり、馬に乗って草原をのんびり散歩したりと、自然と親しむ様々なオプションが用意されている。


◎神秘的な輝きの「青の地底湖」


ボニートの町から西に約20 キロの所にある「青の洞窟」Gruta do Lago Azul は、自然に出来た鍾乳洞なのだが、洞窟の奥に水が溜まってできた地底湖があり、それが日光を反射して鮮やかな青色に輝くことで有名な場所だ。この洞窟は1924 年に先住民に発見されたもので、洞窟の入り口からの深さは70 メートル、広さが120 メートル、その奥に石灰石の白壁に囲まれた美しい地底湖がある。




資料提供 サービス・グローバル


バリスタの淹れる一杯がブラジル・コーヒーを変える
<第9回ブラジルバリスタ選手権レポート>


一杯のコーヒーだって美味しく淹れるにはコツが要る。カフェ版バーテンダー“ バリスタ” が技を競うブラジルバリスタ選手権が9回目を迎えてこの3月にサンパウロで行われた。
このイベントは、ブラジルコーヒー・バリスタ協会(ACBB)が、毎年開催するもので、4日間にわたって4種の競技が行われた。
競技は、エスプレッソにクリーミーなミルクを注いでカフェラテの表面に模様を描く“ ラテ・アート”、ウィスキーベースのアイリッシュコーヒーと、アルコールとコーヒーをベースにオリジナルドリンクを作って競う“ コーヒー・イン・グッド・スピリッツ”、1つだけ味の異なる3カップのコーヒーを1セットとして、8セットのテイスティングの正確さを競う“ カップ・テイスター” そして“ バリスタ” の4つの部門だ。バリスタ部門では、制限時間の15 分間に競技者のバリスタがそれぞれ4杯ずつ淹れたエスプレッソ、カプチーノ、オリジナルドリンクを6人の審査員が採点する。クリームのきめ細かさ、味、見た目に加えて、バリスタの立ち居振る舞いやエスプレッソマシンの使い方などが採点のポイントだ。競技は真剣そのもの。出場回数を重ねている者は、流れるような身体さばきで振る舞い自慢の腕前をアピールしたが、緊張のあまりに手先が震えて、思うようにコーヒーを淹れられず涙する競技者もあった。
会場となったメルカード・ムニシパルの特別展示場は、関係者や応援に駆け付けた出場者の友人・家族、あるいは買い物帰りに立ち寄った人で、連日盛況であった。

◎コペンハーゲンで腕を磨いて

さてイベントの目玉、バリスタ部門で今年見事に王座を手にしたのは、サンパウロのカフェ、スプリシーのヤラ・カスターニョさん。実は昨年も優勝しているディフェンディング・チャンピオンだ。今年6月にはロンドンで開催される世界選手権にブラジルを代表して出場する。昨年の18 位の成績を上回れるか業界関係者は期待している。
ヤラさんは以前にスプリシーで働いていた姉の影響で、店員として勤めていたスケートショップを辞して5年前にコーヒーの世界に入った。現在は腕に磨きをかけるべくコペンハーゲンのカフェ、エステート・コーヒーで短期研修中だ。なぜコペンハーゲン? と思いきや、バリスタ世界選手権の過去の結果に目を通すと、デンマークは4人のチャンピオンを輩出している歴代最多優勝国なのだ。
今年バリスタ部門には、国内各地のカフェの名店に勤める27 人の競技者が参加したが、ヤラさんは、なかでもひと際落ち着いて競技に臨んでいた。それもバリスタ先進国で修行する成果と自負ゆえかもしれない。

◎ワインにソムリエ、コーヒーにバリスタ 

そもそもバリスタという言葉自体、まだ広く知られていないが、世界選手権も初回開催が2000 年と日が浅い。世界選手権の予選にあたるブラジル選手権は、2002 年から行われているが、ACBB が発足したのは2005 年だ。
ACBB は、高質なスペシャルティー・コーヒーのブラジル国内での普及を目的に、業界関係者たちが発足した団体だ。従来、国内市場で販売されるコーヒー豆は、輸出用に比べて品質の劣るものばかりであったが、90 年代の経済自由化、経済回復に後押しされた食のグルメ化と、世界のカフェブームの影響を受けて国内でも高品質の豆が流通し、求められるようになってきている。
高級ワインの世界にはソムリエが、おしゃれなバーには巧みなバーテンダーがいるように、コーヒーを淹れる専門家バリスタを養成することで、スペシャルティー・コーヒーに付加価値を加えることができる。ACBB は全国選手権のみならず、国内5都市でバリスタ地方大会を主催するのに加えて、年を通じてテイスティングのワークショップやバリスタ育成コースを、各地で盛んに行っている。

◎伸び代の大きいグルメ・コーヒー産業

 ブラジルはなにせ世界最大のコーヒー生産・輸出国だ。その座は160 年間にわたって守られている。長らく質より量に重きを置いて世界市場を左右してきたが、経済成長著しいいま、その成長に比例してコーヒーはますます高品質化、ブランド化していくだろう。これまでブラジルのコーヒー豆が海外で高い評価を得ることはあったが、これからはサンパウロで飲むコーヒーが美味しいと世界が注目する時代が来そうだ。あるいは既にそのように認識され始めているかもしれない。
日々の息抜きに一杯のコーヒーを喜びとしている身として、この産業の成長は嬉しい。




<ブラジル美術の逸品>




【ラザール・セガール 「モッホ・ベルメーリョ ( 赤い丘)」】
1926 年 カンヴァス 油彩 115 x 95 cm サンパウロ、個人蔵
Lasar Segall “Morro vermelho” Coleção particular, São Paulo.

「ブラジルが私に光と色の奇跡を見せてくれた」( ラザール・セガール)


黒い肌をしたアフリカ系ブラジル人の親子が、西洋美術に見られる聖母子像をイメージしていると言われると、先入観から少し違和感を覚える。確かに、聖母子が白い肌でなければならない理由はない。神秘的というよりは、日々の現実の姿が浮き彫りにされたようなラザール・セガールの『赤い丘』に、西洋の伝統と強い社会的危機意識に裏打ちされた20世紀初頭のドイツ表現主義*の世界が錯綜する。 

赤土色のレンガを積み上げた家々が斜面を覆う景色は、今もブラジルを代表する風景の一つに違いない。ヤシの木が立ち並ぶ間でシンボリックに描かれた簡素な住宅街の背景は、社会格差の大きいブラジルであっても、同じ人間の生活が営まれていることを思い出させる。
セガールが若いころから好んだ作品のテーマに「マテルニダーデMATERNIDADE(母性)」がある。自らの出自であるユダヤ人の移動の歴史や社会で日の目を見ない人々の嘆きの心の中にも、母子の絆だけは人類全てに光が灯されると信じたヒューマニズムの精神が感じられる。
セガールの同胞であるユダヤ人は、19 世紀後半には帝政ロシアでポグロム(集団的迫害)を受け、1930 年代にはナチスが台頭するドイツで迫害の危機が迫った。1910 年代のドイツで表現主義運動に加わり創作活動を行っていたセガールは、ヨーロッパ各地で展覧会を開催していたが、1938 年にはナチスによって彼の作品は多くが破壊された。「人を喜ばせるためではなく、自らの心を表すために描いている」と晩年に語ったセガールは、ヨーロッパで魂を奪われたような思いをしただろう。 
1930 年代には東欧に暮らしていたユダヤ人がブラジルにも集団移住し、1927 年に帰化していたセガールも、後半生はブラジルで芸術活動に専念する。一度はヨーロッパで悲しみに打ちひしがれたセガールの心は、再びブラジルで命の輝きを取り戻した。代表作の名画『移民船』もブラジルで生まれた。生死を隣り合わせに生きる人々、ヨーロッパの同胞たちを思うと、ブラジルで生き続けること、自らの心と向き合える暮らしが再び訪れることは奇跡だった。

社会や人の心の奥深くを見つめながらブラジルの美も称えたセガールの作品の中で、『赤い丘』に表された世界でも類を見ない描写は、人種や民族の壁をこえて人類が大切にすべきものを訴え続けている。

★ラザール・セガール (1891-1957)
帝政ロシア時代に現リトアニアの首都ビリニュスでロシア系ユダヤ人の家庭に生まれる。ドイツ・ベルリンの美術学校で学び、ドレスデンで表現主義運動に加わり大きな影響を受ける。1913 年に初めてブラジルを訪れ、ブラジル初と考えられている近代芸術展を開く。1925 年にサンパウロ生まれのロシア系ユダヤ人ジェニー・クラビンと結婚、1927 年にはブラジルに帰化する。以後もヨーロッパとブラジルを往復しながら芸術活動に献身し、ブラジル芸術の近代化や幅広いジャンルの芸術活動にも尽力した。現在、サンパウロ市の自宅兼アトリエだった場所が美術館になっている。

【Museu Lasar Segall】
Rua Berta,111-Vila Mariana ℡ :5574・7322
* '10 年代のドイツで若者を中心に、思想や文芸などにおいて、権威主義的伝統や秩序に基づく価値観などに対抗した。

筆者 おおうらともこ



<摩訶不思議なブラジル経済>
~金利上昇へ~


年間金利が41.9%と聞いて高いと思うか、低いと思うか? もちろん日本人にとって法外な金利と感じるのが普通である。日本では2006 年に出資法の上限金利が20%に引き下げられたが(実際の施行は2009 年から)、日本のあの悪名高いサラ金でもそれまでは29.2%の出資法上上限金利(いわゆるグレーゾーン金利)が最大であり、利息制限法の規定では従来から10 万円以下の貸出については年20%の金利が最大であった。それを考えるとこの41.9%はあり得ない金利であるが、この数字はブラジルで今年2 月に記録した個人向け貸出の平均的な金利水準である。これは現在のブラジル通貨レアルが導入(1994 年) されてから集計した中で歴史的に一番低い水準なのである。因みに法人向けの貸出金利の平均的な水準は2 月が25.9%で1 月は26.5%とこれまた低下している。
この金利低下の主因は貸出をする銀行の資金調達コスト(SELIC 金利)が下がったことが最大であるが、それ以外に所謂「デフォルト」率という借金を返済できなくなり債務不履行になる確率が下がってきたことにより銀行の損失・負担が減り、銀行が金利を下げることが可能になったことも背景にある。昨年8 月には個人向け貸出のデフォルト率が5.9%であったのに対し先月は5.3%に低下している。したがって、銀行の資金調達コストが不変にもかかわらず銀行が貸出金利を下げることができたのである。デフォルト率が下がっているのは、やはりブラジルの景気の良い証拠でもある。
しかしながら、高金利世界ナンバーワンの汚名を返上したブラジルであるが、これから今年の後半にかけて金利が大幅に上昇するというのがもっぱらの市場の見方である。今年1 月からのインフレ率も消費者物価指数の代表であるIPCA が0.75%(1 月)、0.78%(2 月)、卸売物価指数の代表であるIGP-M が0.63%(1 月)、1.18%(2 月)と高水準で推移している為の対応である。ブラジル政府はIPCA を年間で凡そ4.5%に抑えたい意向があるので現在のペースでいくと7 カ月間以内に4.5%を超えてしまう計算である。

今後の金利の上昇については年末には政策金利であるSELIC 金利(現在は8.75%)が12%前後まで上昇するとみるのが一般的である。一方で金利が上がったとしても銀行からの貸出の総金額自体は今後も増加すると見られている。現在の貸出は2 月に14.4 億レアルを記録し、これは凡そ国内総生産(GNP)の45%程度に相当するが、年末には49%程度まで増加し、年間で20%程度増加するとブラジル中央銀行は予想している。
政策金利が上昇すれば消費者や企業への貸出金利が上昇するのは避けられないと思うが、政府系のBanco doBrasil やCaixa Econômica は出来るだけ金利は上げない様に努力するとコメントしているが如何であろうか?何れにせよ、今後ブラジルの金利が上昇するのは間違いないので借金の多い人は気を付けて欲しい。
最後に3 月24 日にブラジル中銀は外貨規制について興味深い発表をしている。この影響を今後多少分析してから詳しく説明したいが、我々に影響がある点として、ブラジル企業が海外から借入をした場合に今まではブラジル中銀に返済計画等を登録する必要があったがこれが不要にな点、ブラジルにおける外貨両替・海外送金等の業務が既存の銀行以外の金融機関もしやすくなる点である。興味がある方はブラジル中銀のサイトや新聞等を注意して見て欲しい。


筆者 加山 雄二郎(かやま ゆうじろう) 大学研究員。


<ブラジル社会レポート>
~ブラジルのファストフード~


サンパウロ市に「すき屋」がオープンしましたね。日本でおなじみのメニューだけでなく、ブラジル人の嗜好に合わせたメニューがあるようです(まだ行っていません)。「働くために食べる日本人と違って、ブラジル人は料理を味わうために働くんだ」と言われていたブラジルですが、ファストフード市場はどんどん拡大してゆきそうです。
そのファストフード・チェーンですが、ブラジル国内では大別すると、外資系と内資系があります。外資系といえばマクドナルド、内資系といえばBob’s が、東西の横綱でしょうか。日本の味を届けるという意味では、サンパウロ市内の一部のラーメン店もいわば日本のラーメン店の「系列」の味を保っていて、日本のファストフード店の「進出」といえなくもありません。そうした国際展開において、「味をどうするか」には、2 種類の対応があります。ひとつは、「すき屋」のようにブラジル人の嗜好に合わせたメニューを置くもの、もうひとつは、マクドナルドのようにかたくなにワールドワイドを重視するケースです。
外資系でネイティブ化したメニューを用意する「すき屋」のようなケースは、実は小数派です。なぜなら、ブラジル人はそこに「ブラジルに無い味」や「その国に行くと食べることのできる(本物の)味」を求めていることが多いからです。これに対してBob’s は、自社の強みはブラジル人の嗜好にあった味付け、柔軟に組み合わすことができるメニュー構成にある、と主張しています。私などは単純な人間なので、外資系の主張を聞けばなるほどと思い、内資系の主張を聞いてもうなづいてしまうわけですが、恐らく、味やメニューとお店の人気の関係は、単純ではないと思います。

例えば、世界的には一定の成功を収めているKFC は、ブラジルでは成功していません。ケンタッキーフライドチキンと呼ばずに当初からKFC として進出したのは、「ブラジル人はケンタッキーフライドチキンと発音できない(覚えきれない)から」だそうで、「ネーミングが悪いのが諸悪の根源」という意見もあるわけですが、個人的には、そもそも鳥の唐揚げ、というカテゴリーに無理があったように思います。単に肉といえば牛肉を意味する大阪同様(ちなみに豚肉は豚と呼ぶので大阪では肉まんは存在せず豚まんと呼ばれます。そして肉じゃがは牛肉です)、ブラジルでも肉=牛肉。私自身を振り返っても、外食(でお金をかける)なら牛肉ではないでしょうか。反対にビールが主役になっておつまみ、というなら安い鶏肉(鳥カラ:フランゴ・ア・パッサリーニョ)という意識です。KFC の不人気は、盛り場になれない国際チェーンのしがらみではなかったか、と「すき屋」の戦略を見て思うわけです。それに鶏肉のテイクアウトという点では、フランゴ・アッサード(鳥の丸焼き)が、家庭で再現できない料理(調理技法)として定番化しています。
ほかにブラジルに進出したファストフードといえばサブウェイもあります。いちいち何を挟むのか伝えなければいけない方法に、ポルトガル語ができなかった当時の私は閉口したものです。対話をしながら完成されてゆくサンドイッチを見て、「ぜんぜんファストフードになってないよ」と泣いたのはここだけの話。
そういった余談はともかく、KFC の失敗例を見ていると、社会風土によるハンデを克服するためにあえてメニューを工夫するのは意味がありそうです。ただし問題は、「すき屋」がブラジル化された料理で消費者を育てると、競合店出現への敷居を低くしてしまうこと(メニュー開発でネイティブと同じ土俵に上がるため)でしょう。反対に、現地化されたメニューを継続しながら日本志向の消費者(市場)を育てれば、他の日本の競合店の進出の地ならし役になりかねません。つまり、本物を食べるなら「すき屋」ではなく別の店だというイメージ戦略の餌食にされかねないと思うのです。この問題、私は素人ですがマーケティングから見ても興味深いのではないでしょうか? ちなみに、私の友人のブラジル人は、「今ではソ○ーの製品でMade in Japan なんてほとんど無い。でも、私は安心してソ○ー製品を買うよ。だって、どこで作られていてもソ○ーはソ○ーだから」と言っております。私はというと、「どこで買っても、どこで製造してもタイマーを入れてくる技術はすごい」と落胆しつつ、何かしら、つい買ってしまうカモです。
ちなみに私は、ブラジルへ来た頃からBob’s よりマクドナルドに世話になることのほうが極めて多かったです。その理由は味ではなく、ポルトガル語が全くできなくても人差し指を立てるだけでビッグマックのセットを購入することができたから。さすが、世界標準。ずっと時代が下がって、Bob’s の経営陣が「ブラジル人の嗜好にあった柔軟なメニュー」が強みだと発言しているのを聞いて、「確かに外国人には理解しにくいブラジル人のための注文方法だなぁ」と思ったものでした。


筆者 美代賢志 (みよ けんじ)
ニュース速報・データベース「B-side」運営。
HP : http://b-side.brasilforum.com

2010年5月11日火曜日

ピンドラーマ2010年4月号その2

<ブラジル移民レポート>
~オランダ編~

◎オランダ系ブランドの乳製品

「batavo バターボ」 というメーカーの乳製品がサンパウロのスーパーマーケットで販売されている。ヨーロッパの牧草地帯で白い帽子をかぶる少女の顔が思い浮かぶようなロゴマークで、バターボがオランダ人という意味であることを知ると、少女の顔がとたんにオランダ人に見えてくる。
「バターボ」はオランダ移民によって1928 年にパラナ州のカランベイCARAMBEÍ で創られた。カランベイは1995 年に隣接するカストロCASTROとポンタ・グロッサPONTA GROSSA から分離独立した町で、当地にコミュニティーを形成してきたオランダ移民によって発展してきた。カランベイの起源は1911 年に52 人のオランダ人が移民したことに始まり、1925 年にはオランダ系乳製品協同組合を発足させ、その3 年後に「バターボ」も誕生した。
第二次世界大戦後になると、オランダからの戦後移民がカストロの一地区に入植し、新しいコミュニティーであるカストロランダを形成した。戦前のカランベイのオランダ移民が築いた道を踏襲し、新しくカストロランダ協同組合を設立し、やがて同地のバターボ組合やアラポチ農業組合と合併してパラナ州乳製品中央組合を発足させ、現在はブラジル有数の乳製品組合に発展している。

◎ラテンアメリカ最大の風車は!?

カストロランダCASTROLANDA はパラナ州のカストロ内にあるオランダ系コミュニティー。1950 年以降、第二次世界大戦で疲弊したオランダを離れ、新天地で新しい人生を踏み出そうとしたオランダ人農業従事者を中心にコミュニティーは発展してきた。戦後のオランダ移民は、オランダ本国から最新鋭の農業器具や血統書付の家畜を持ち込み、当地の農業・乳業が飛躍的に発展することに貢献した。
カストロランダには2001 年に建設された名物の風車がある。高さ37m、羽根の全長が26m に及ぶ伝統的なデザインの風車は、オランダ在住のベテラン風車設計士Jan Heijdra 氏によって設計された。ラテンアメリカ最大の大きさを誇るはずだったカストロランダの風車・・・が、2008 年にはライバルが出現。同じくJan Heijdra 氏の設計によってサンパウロ州オランブラにも、当地のオランダ移民入植60 周年を記念して高さ38.5m、羽根の全長24 mの風車が建造された。オランブラの風車もラテンアメリカ最大と言われるようになり、高さで取るか羽根の全長で取るか、いずれにしてもブラジルの青空と雲によく映える風車が美しい。












◎オランダ人とブラジルの関係

現在、ブラジル全土にオランダ人は暮らしており、オランダ人全体の数は特定されていない。プライバシーを重視するオランダの法律により移住者の正確な数が把握しにくく、1 万人~ 3 万人など数値は変化する。
ブラジルとオランダ人の歴史は長い。17 世紀にさかのぼると、ドイツ貴族出身のマウリシオ・デ・ナッサウを総督としたオランダ西インド会社がレシーフェ(PE)を中心にブラジル東北部を支配し、サトウキビ貿易によってオランダに富をもたらした。
18 世紀に入ると、ブラジル南部ではセズマリア(*1) がフランス人、ベルギー人、ドイツ人、オランダ人などに与えられ、ヨーロッパ各国の移民は小集団にまとまってコロニア(入植地)を形成し始めていた。例えば、パラナ州のカンポス・ジェライス地域(*2) では家畜の囲い場が作られるようになり、20 世紀にオランダ移民が乳業で台頭する素地が養われていたという見方ができる。

◎花と風車の町オランンブラ

サンパウロ州オランブラHOLAMBRA は、大小様々な風車を町のいたるところで見ることができる。道路標識はチューリップの形、通りの名前を示す看板にもチューリップのデザイン。一歩町を出れば、花を生産する農場が点在し、毎年9 月に開催される大規模な花祭りは、ブラジル各地から人々が訪れる。
町の名前はHOLLAND のHOL、AMERICA のAM、BRAZIL のBRA を合わせたもので、1993 年に一つの市として独立した。独立以前のオランブラは3 つの町の辺境にまたがっており、教会や学校、診療所など、オランダ人が利用する施設も3つの町に散在していたため、インフラ整備を速やかに充実させ、主力産業である花産業を発展させるねらいもあって、3 つの町から分離独立させられた。
オランブラの起源は1948 年に2 人のオランダ移民が同地域にあった約5000ha のリベイロン農場に入植したのが始まりで、その後続けてオランダ移民が集団で同農場を中心としたコロニアに移住した。’48 ~ ’99 年の間に合計1212 人が入植(表を参照)、第二次世界大戦後、ブラジルに渡ったオランダ人の数は’48 ~ ’99 年の間に6986 人が記録されており、内オランブラに入植したのが最も多く全体の17.3%を占めている。 
ブラジル国内にはパラナネマPARANANEMA(SP) の第2 オランブラ移住地Holambra Ⅱ や前述のカランベイやカストロランダなど、オランダ人の集団移住地として知られる町が6ヵ所あり、オランブラは最も大きな移住地となっている。

◎花で花咲いた町

サンパウロ州はブラジル国内最大の花の生産地( 全体の約70% ) で、オランブラはサンパウロ州内最大の花の生産地となっている。オランブラで花を生産する農場の約半数はオランダ系である。オランブラのヴェーリング市場はラテンアメリカで最大の花のマーケットとして知られている。
オランブラで花が栽培されるようになったきっかけは、オランダ移民が祖国からたまたま持ち込んだグラジオラスを庭先に植えたところ、順調に育ったことにあるという。有利な条件で販売することができたため、やがて既に花の生産国であったオランダから花栽培を目的に移住するものも現れた。’54 年にグラジオラスが生産され始めて以来、’60 ~ ’80 年代にかけてバラ、ガーベラ、セントポーリアなど、現在まで栽培されている花や苗が生産されるようになった。
日系農家もサンパウ州を代表する花の生産者であり、花を通じたオランブラとの関係は深い。

◎ 日帰りドライブに最適の オランブラ

オランダ移民の足跡を身近に感じられるオランブラへは、車での日帰り旅行が最適。サンパウロ市内から約2 時間ほどで、大きな風車やオランダ料理を楽しめる、ひっそりとのどかな町に到着できる。9 月の花祭りの時期は多くの人出で活気づく。
町の出入り口の一つに名物の大風車と観光案内所がある。そこから町中に向かうとオランブラの歴史文化博物館にたどり着く。メンイストリート沿いには簡素な教会やオランダ移民の高齢者が入居している福祉施設などもあり、警笛を鳴らすのを禁止するチューリップ型の道路標識が目に留まる。
花の農園を見学できるツアーも観光案内所で申し込める。

【オランブラのインフォメーション】

☆オランブラ歴史文化博物館 Museu Histórico-Cultural de Holambra
博物館といっても小農園のような雰囲気。1948 年の入植当時から現在までのオランダ移民の足跡をたどることのできる写真、移民したばかりのころにオランダ人が暮らした家のレプリカなどが展示されている。名物の木靴も購入できる。外に展示されている礼拝堂の屋根の鐘は、1933 年にオランダ移民が持ち込んだもので、ナチス・ドイツによって武器に作り変えられるのを避けられた貴重な鐘。
開館時間 火~金:11 時-16 時
土・日・祝: 10 時半 -16 時半 
入館料3 レアル Tel : (19) 3802 -2 053

☆ Restaurante Casa Bela(オランダ料理)
オランダのジャガイモ料理のスタンポットやヒュッツポット、オランダ植民地時代のインドネシア料理に影響を受けたナシゴレンなど、現代風にアレンジされた様々な料理が食べられる。土産物店も隣接している。
火~日:11 時半-14 時(ブッフェ)
土・日・祝: 12 時-15 時( ブッフェ) 
営業時間はどの日もアラカルトは最後の客まで 
月: 休み 
Tel: (19) 3802-1804

☆ The Old Dutch(オランダ料理)
田舎風のたたずまいでジャガイモや肉・魚の素朴な料理が名物。
火~金:11 時20 分-14 時半
土・日・祝: 11 時半 - 16 時 
月: 休み
Tel: (19) 3802 - 1290

☆観光案内所: TEL:019・3802・9636

☆オランブラへのバスでのアクセス
チエテ・バスターミナルからカンピーナスへ約1 時間。カンピーナスのターミナルから徒歩5分のローカルバスのバス停でARTUR NOGUEIRA(VIA HOLAMBRA)行きに乗り約55 分。土日はローカルバスの本数が少ないので、行きはARTUR NOGUEIRA 行き( 土:8 時半発 日: 9時20 分発)に乗り、帰りはCAMPINAS 行き( 土・日:15 時45 分、17 時10 分、18 時15 分)に乗った方がよい。バス時刻の詳細は観光案内所で確認した方がよい。

※参考文献:ブラジル花卉産業史編纂委員会『ブラジル花卉産業史序説』,2009 他

*1 ポルトガル王がブラジルの開拓者に分割、封与した土地。
*2 パラナ州ポンタ・グロッサの辺りを中心とする地域。

企画:ピンドラーマ編集部 文・写真=おおうらともこ

おおうらともこ
1979 年兵庫県生まれ。’01 よりサンパウロ在住。ブラジル民族文化研究センターに所属。子どもの発達に時々悩み、励まされる生活を送る。


<ブラジル版百人一語>
カルロス・ディエゲス(映画監督)

「かつて、われわれはブラジルを軽視し、この国の事象に価値を与えないのが、流行だった。幸いなことに最近は、この悪しき習慣から自由になってきてきているが、自国に対する冷笑的な見方はいまだに続いている。私とて、生活するにはブラジルが世界で最良のところだとは思わない。むしろ、周知の如く、生活するにもややこしく、重態的な基本問題も悲惨な状態も累積し、住民の大多数が疎外されている国なのだ。だが、私はブラジルとブラジル国民に限りなき好奇心を抱いている。われわれはその使命を果たしていないけれど、ブラジルは西欧文明の継承において、何がしかのものになると運命付けられている、と私は考える。ある思想家は、中国や日本が極東であるのに対し、ブラジルは極西だとみなした。実際のところブラジルはまさしく極西であり、西欧文明のリーダーシップを受け継ぐ、稀有な天賦の才に恵まれた極西であるのに、われわれはそのことに気付いていない。(自国についての無理解は)自分の責任なのに、他者に責任をなすりつけようとするのは、まさにわれわれの責任なのだ。こんなフラストレーションを抱えつつも、私はブラジル国民を愛している。」


1956 年リオ。文化の分野でもエポックメイキングな” 事件” が起きた年であった。
ヴィニシウス・デ・モラエスの劇作『コンセイサゥンのオルフェ』が市立劇場で公演され、そのストーリーの斬新さに加え、建築家オスカール・ニーマイヤーによる極度に抽象的な舞台装置、そしてトム・ジョビンの舞台音楽、という究極の三位一体が観客の五感とハートを鷲づかみにしていた。そして、青年ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督の長編映画第一作『リオ40 度』。シネマ・ノーヴォを先取りしたレアリズム映画は、そのラディカルさにおいて一旦政府によって上映禁止となったが、関係者の奔走の結果、公開にこぎつけ、圧倒的なインパクトをもたらしていた。当時16 歳だった多感な高校生が、この劇と映画における話題作二つをみて、自らの人生観が転換してしまったほどの衝撃を受けていた。現代ブラジルを代表する映画監督カルロス・ディエゲス(1940 年アラゴアス生まれ)の若き日々である。
人は、親しみをこめて” カカー” と愛称する。
カカーは、PUC( カトリック大学)で法学を修めるが、学生運動で頭角を現すものの、映画人として生きる道を選択する。その長編第一作が17世紀の逃亡奴隷王国パルマーレスを描いた『ガンガ・ズンバ』(1963 年)であった。ネルソン・ペレイラ、グラウベル・ローシャ、ジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデ、レオン・イルツマンといった個性的な映画人が推し進めたシネマ・ノーヴォという映画革新運動の、一番若い参列者として23 歳でデビューしたのであった。
『シカ・ダ・シルヴァ』(1976 年)は18 世紀ミナスで実在した女性奴隷の半生を描き、『バイバイ・ブラジル』(1979 年)ではテレビ文化批判を、『キロンボ』(1984 年)では再び逃亡奴隷王国パルマーレスの戦いを扱い、『オルフェ』(1999年)はヴィニシウスの原作に忠実に映像化、『ゴッド イズ ブラジリアン』(2002 年)では「神を信じなかった聖人」を通じた” 神の人間化” を主張した。このように一貫してブラジルの歴史や現実を題材として映画というツールを活用した“ カカー風料理” を観客に提示してきている。その“ 味” が広く受け入れられたことは、入場観客数(『シカ』550 万人、『バイバイ』250 万人、『ゴッド』200 万人)をみても明らかだ。
冒頭に引用したのは、ジャーナリスト、ロベルト・ダヴィラのインタビュー集『映画人たち』(2002 年)に収録されたカカーの発言であるが、筆者自身も2003 年、カカーにインタビューした際、貴方はどのように自己規定するか、との不躾な質問をぶつけたことがある。彼の答えは、自分はアラゴアス出身のカリオカで地域主義的心性を持たない人間だが、あえて自己規定すれば「ブラジル知りたがり屋」ないし「ブラジルという地理的領域に限りない好奇心を抱いている男」だ、というものだった。
著名な人類学者の次男として生まれたカカーは、父親のDNA を受け継ぎつつ、かつての強烈な軍事政権批判者から「ブラジルのあるべき姿」を追求する求道者になった、といえるかもしれない。


筆者 岸和田仁(きしわだひとし)
東京外国語大学卒。二度目のブラジル滞在(前回と合わせると、延べ19 年間)を終え、09 年6 月帰国。ブラジルを中心とするラテンアメリカ研究は継続中。著書に『熱帯の多人種主義社会』(つげ書房新社)。新しい著書を” 工事中”。




<ブラジル映画を楽しもう>
シーツの中で Entre Lençóis


かつて私の友人達(ブラジル人)と結婚観について会話した事があります。一人は「情熱的な恋(Passion)によってのみ、理想的なカップルの出会いがある、それが実って結婚に至る(ブラジル型)」と言いました。もう一人は「ある男女間にキューピットがやって来て二人の心に矢が放たれる。その時に恋が芽生え、以後カップルの二つの心臓は矢が刺さったまま恍惚と辛苦の狭間を愛による忍耐でもって通過し、結婚に至る(神話型)」と。他の者は「結婚仕掛け聖人、聖アントニオが遣って来て、情熱の恋と愛という神様の贈り物がカップルに与えられ夫婦が出来あがる(カトリック型)」と。「日本では恋無しの見合い結婚で夫婦になります(東洋型)」と彼等に話すと「間違っている!」との一言でした。今回の映画の内容と下記のBGM歌詞はごく最近の恋愛観を良く表しています。

   踊りが終わろうとしている時 僕は君を見た その時 時間が止まり、 
   胸のときめきを感じた 一生、君を愛していきたい


   こんな風に成ろうとは思いもしなかった もしこれが夢だったら、覚めたくない
   ほんの一瞬なのに、 今、私達が一緒になっている事を 貴方は知った
   考えたという訳でもないのに出会った シーツの中で


   それに私は 一生、君を愛していきたい こんな風に成ろうとは思いもしなかった
   もしこれが夢だったら、覚めたくない 


   これが本当の恋 ただ見つめ合うだけでも感じる 一生君と居たい
   シーツの中で 出会った時と事の成り行きをもう一度想いだしたい

今日の映画『シーツの中で』はディスコに行った男女がセックスの為に情恋関係を結び、モーテルに於いての6 時間、交接行為を3 回する間の会話(とくにロゴスとパトスの遣り取りは勉強の価値があり!)、冗談、笑談、スキンシップ、キッス、ゲーム遊び、二人劇、ストリップ・ショー、デザート食、幻想世界への誘い、写真撮り、喜ばせるファンタジー、感傷的心理関係、恋愛生態学、モーテルでの過ごし方(これぞブラジル版セックス聖典カーマ・スートラですぞ!)。舞台設定はリオ・デ・ジャネイロの海岸にある高級モーテルの一室(僕も行って見たい!)。
映画監督はコロンビアの映画界を代表する巨匠、グスタヴォ・ニエト・ロア(1942 年生)。
別居予定の既婚者、ロベルト役はレイナルド・ジアネキニ(1972 生)。ブラジルを代表する肉体美の持ち主、ブラジル中の女性に焼餅を焼かせる男。 
結婚式を今日に控えたパウラ役のパオラ・オリヴェイラ(1982 生)は今年のカーニバルの優勝候補だったグランデ・リオ・サンバ学校の代表、バッテリー女王として踊った絶世の麗尻美人です。
ロベルトは妻との喧嘩別れの憂さ晴らしと独身生活を再謳歌する船出にディスコでパウラをハントします。かたや、パウラは最後の独身最後の思い出にロベルトを誘惑します(女が男をハント?)。ストレス解消の癒しの為のセックス(ロベルトの)と独身最終日の快感を心ゆくまでに成したいと欲したパウラのセックスはシーツの中で激しく重なり合いました。
事を満足気に終えたパウラはバッグの中に手を入れて口紅を取ろうと躍起になっているところ、ロベルトがバッグを逆さにして中身を全部ベッドの上に広げてしまいました。何と!SMプレイの道具が色々と・・・(びっくり仰天!)。しかしながら、パウラは何の言い訳もせず、服を着て部屋から出ようとします。すかさず、ロベルトはドアの前に立ちはだかって「今のセックスは最高だったよ!君は?」と訊ねます。「私もよ!」との答えに、ロベルトが彼女の唇にキッスすると抱き合ったまま考えることもなく、服を脱がしあいベッドの上で愛し合うのでした。
そのあと、お腹の空いた二人はフルーツをチョコレートで包んで食べます(事の後には糖分が必要ですね)。満足感が疲労感に変わった彼はランプを消して寝ようとしますがパウラがその態度にクレーム「一人にしないで欲しいわ!」と。納得できないロベルトは怒って「もう帰る」と服を着てしまいます。その時「今日、私、結婚するの!今日が独身最後の日なの!」と意外な告白をするパウラ。それを聞いたロベルトは益々怒って「じゃ!僕は君に利用されたディスポか!」。その空気を読んだパウラはすかさず「御免なさい!本当に御免なさい!」と謝罪(ブラジル女性はヤリマスネ!
男性を凌ぐ・・・!)。
怒りが収まったのを見計らったパウラは持っていたアロマ・オイルを使ってロベルトの心を癒すべく体を入念にさすってマッサージします。かわってロベルトもパウラの体をマッサージしながら真面目に自己紹介します。今度は余興をやろうと言うことでパウラがストリップを披露します。麗しい肢体から脱いでいく下着、それを見るロベルトの子供風のはしゃぎ方。彼等のショーに興奮した二人はまた抱き合い、重なり合い、さすり合いの愛撫が始まります。
ふと深刻な様相になって服を着付け始めたパウラに「昨日、僕は別居したんだ!」と真相を告げるロベルト。そして「君は本当に美しい!(愛の告白)」と。その言葉にパウラは動揺し、マジに結婚放棄の決意まで考えます(静寂)。暗い雰囲気を取り払おうと、ロベルトがデジカメでパウラを写し始めます(パウラの笑顔をもう一度!)。それに答えてパウラも色々なポーズを返します(微笑み)。
パウラの入浴中に、ロベルトは真紅のバラを部屋中に置きます。それを見たパウラは驚きと感動と嬉さで言葉を詰まらせてしまいます。ロベルトは「何も言わなくていいよ!踊ろうよ!」と(ロマンチックですね!)。
やがて夜が明けてベランダに出る二人。その眼前に広がる海と島々の風光明媚な景色は彼らを清々しい気持ちに浸らせます。そんな時ロベルトのポケットから携帯電話の音がします。妻からの電話です。何回も鳴るベルの音にパウラが不機嫌になって「受けなさいよ!」と言います。ロベルトは「いや!今、受ければ、妻に嘘をつくことになるから!同時に貴方にも嘘をつくことになる!それが嫌だから・・・後で本当の事を妻に話すよ!」。そこへパウラの携帯は婚約者から、そして彼のは妻からメッセージが入ってきます。二人は心配と深刻さが混入して複雑な心境になっていきます。パウラは婚前に愛人を持ったような状況に駆られます。婚約者との関係を今、切断してロベルトと結婚すべきとの選択を迫られます。しかしロベルトはパウラに「誰も傷つけてはならない!婚約者も、妻も!そして、それに関係した人々にも、そして、確実な決定は今できないし、してはいけない!誰の責任でもなく、誰も悪くない!現状況が自然にそうしたのだから!全ては自分達の意図が恋愛ファンタジーとして現実化したに過ぎない!」と。パウラも同調し、それ以上の結果(ロベルトとの結婚)を要求しないと言うことで妥協します。その結論に至った二人は涙と悲しみに浸りながら抱き合い最後の夢事を供宴するのでした。
部屋を出る時、二人はお互い、丁重に感謝の意を呈し、断腸の思いを短い頬へのキッスに、そして決意を、離し難い握手に込めて、ドアを開けたのでした・・・


☆ シーツのシーツの中で Entre Lençóis (2008 年作品)
監督 グスタヴォ・ニエト・ロア
出演 レイナルド・ジアネキニ/ パオラ・オリヴェイラ


筆者 佐藤 語 (さとう かたる)
映画によるアート・セラピスト



<新・一枚のブラジル音楽>

アドニラン・バルボーザ / ドクメント・イネーヂト(未発表の記録)
Adoniran Barbosa / Documento Inédito



かつて詩人のヴィニシウス・ヂ・モライスは「サンパウロはサンバの墓場」と言ったことがあるそうだが、これはカリオカ特有のサンパウロに対する悪意のこもった偏見によるものだろう。別にリオのサンバだけがサンバではない。サンパウロにもサルヴァドールにも、ベレンにだってサンバはある。
2010 年の今年、リオのサンバ界は名作曲家ノエル・ローザの生誕100 周年で盛り上がっているそうだが、サンパウロでも同じく生誕100周年を迎えたサンバ界の重要人物がいることを忘れてはならない。「誰それ?」という人もいるかもしれないが、彼の代表作「11 時の夜汽車Trem das Onze」を聴けば、「あ、あの曲か!」と思い出すのではないだろうか。「もうすぐ終電が出てしまう、お母さんが待つ家に帰らないと」と、恋人との別れ際を歌ったこの曲は、パウリスタなら誰でも口ずさめるサンパウロのサンバの名曲だ。その作者の名はアドニラン・バルボーザである。
アドニラン・バルボーザこと、ジョアン・ルビナートは1910 年11 月23 日、イタリア系移民の両親の元、カンピーナス近郊のヴァリーニョスValinhos で生まれた。戦前からラジオDJ やコメディアンとして活躍、今でいうマルチタレントのハシリだった。当初は本名で活動していたが、音楽活動をする際の芸名として自ら「アドニラン・バルボーザ」を名乗った。これは本人があくまで「音楽活動は副業として」、との思いからだったそうだ。1949 年、映画音楽の仕事を通じてサンパウロのサンバ・グループ、デモニオス・ダ・ガロアDemônios da Garoa と知り合うと、密接に活動を共にするようになる(まああえて分かりやすく例えるなら「内山田洋とクールファイブ」的な関係か)。それはアドニランが亡くなるまで続いた。
アドニランの名が一躍有名になったのは1951 年に書いた「Saudosa Maloca」という曲がヒットしてから。この曲は古き良きサンパウロの街並みが急速に都会に変わっていく様子をせつなく歌い、人々の共感を得た。1956 年にはブラジルの有名な小説家ジョゼー・デ・アレンカールJosé de Alencar の代表作からインスパイアを受けた「Iracema」がヒット。そして1964 年に生涯の代表作となる前述の「Trem das Onze」を発表、これが空前の大ヒットを記録した。この曲はガル・コスタをはじめ多くの歌手がカバーしており、サンパウロを代表する歌として市民に定着した。
作詞作曲家として成功した彼だが、自身は歌手活動にはあまり力を入れていなかったようで、1950 年代に数枚のSP レコードを出しただけで、1960 年代は全くリリースしていなく、初のソロコンサートは1972 年、初アルバムは1974年になってからだった。
アドニランを語る上でエリス・レジーナElis Regina の存在は忘れることは出来ない。当時、人気絶頂にあったエリスは、アドニランと大変気があったようで、自身のテレビ番組に度々出演させ、共演を果たしている。映像も一部残っており、是非観て頂きたいのはエリスのDVD BOXに収録された1978 年の共演の模様だ*。
これはエリスの特別番組で放送されたもので、アドニランの生活の拠点だった町、ビシーガBexiga(サンパウロ市内)で撮影されており、音楽はもちろん、二人の佇まいやファッション、バールの雰囲気、町の風景など全てにおいて非常に素晴らしい内容だ。ブラジル音楽のひとつの至宝といっても過言ではないだろう(伴奏者が使っている楽器がリオのサンバの演奏者とは微妙に違うのも興味深い)。
アドニランは1982 年、72 歳の生涯を閉じた。亡くなるまでに4 枚の作品を発表した(スタジオ録音3 枚、ライブ盤1 枚。没後、2 枚未発表録音集がリリースされた)。
今回紹介するのは、彼の没後1984 年に発表された、主にテレビ出演時の音源からセレクションした未発表録音集。前述の「Saudosa Maloca」と「Trem das Onze」のほか「Samba Italiano」など、誇り高きパウリスタのサンバが収録されている。特に1 曲目のエリス・レジーナとのメドレーは、1965 年に収録されたもので、この時期の彼の録音は珍しく資料的価値も高い。
晩年まで精力的に活動していたアドニラン、帽子と蝶ネクタイがトレードマークの紳士だった。派手な生活とは無縁で、イタリア系移民の多く住むビシーガという町を愛し、生涯その日暮らしのボヘミアンな生き方を送っていた人物だった。現在も高くリスペクトされ、あのフンド・ヂ・キンタウFundo de Quintal もサンパウロでライブするときには必ず彼の曲を演奏するという。
「サンパウロのサンバなんて…」、と言う前に、サンバに興味があるのなら是非一度聴いて欲しい作品だ。

(*)Youtube にて視聴可能 
http://www.youtube.com/watch?v=Ea5nMXIRxQM


Willie Whopper
東京・西荻窪にあるブラジル・スタイルのバー、Aparecida のオーナー。著書に『ムジカ・モデルナ』、
他、CD ライナー等多数執筆。




<ピアーダで学ぶブラジル>
お題:シャンプーSHAMPOO


金髪娘がシャワーに入る前にシャンプーをしています。



お母さん「あなた、なんでそんなことするの?」

娘「だって、『乾いた髪用』って書いてあったんだもん…」



A loira botou o shampoo antes de entrar no chuveiro.


"Filha, por que você faz isso?"


"Porque tinha escrito,‘para cabelos secos’..."


<解題>
ブラジルで、金髪の女の子は「おバカちゃん」の代名詞。
いわゆるステレオタイプ(紋切り型思考)で事実無根ですが、その起源は20世紀のアメリカ。アニータ・ルース作「紳士は金髪がお好き」は、ミュージカルやマリリン・モンロー主演の映画にもなりましたが、作者(金髪ではない)の男友達がみんな、金髪に染めた女性たちにどうしようもなく熱を上げているのを見て着想を得たコメディーで、これが起源と言われています。
金髪はヨーロッパ女性の代表的美しさなのですが、男性が金髪女性に魅かれるのを見て、黒髪や茶髪の女性が金髪に染める(マリリン・モンローもそうですね)=尻軽な愚かな行為、「金髪=おバカ」となってしまったようです。ちなみに、サンパウロにいる金髪女性のうち本当の(生まれつきの)金髪は15人にひとりだけというニュースが以前ありました。






2010年5月10日月曜日

ピンドラーマ2010年4月号その1

ピンドラーマ2010年5月号がでましたので、先月号をアップします。
5月号からJALの機内とラウンジでご覧いただけるようになりました。




<ブラジルを撮る!!>


《機体全体に多数の署名が施された飛行機。何らかのイベントに使われたと推測される》
撮影場所:ブラジリア国際空港
写真:伊東 信比古

<移民の肖像>
【グァマ移住地に留まり続けた渡部リツ(わたなべ・りつ)さん】

パラー州ベレン近郊のサンタ・イザベルからトメ
アスーに向かう舗装道路を車で走ること約20 キロ。道路の東側にあるグァマ移住地内の高台に、今も住み続ける渡部リツさん(86歳、福島県出身)を訪ねた。
1957年、福島県内で川が氾濫し、渡部さん家
族ら9家族が持っていた畑が水没の被害に遭った。夫の徳次さん(83年、69歳で他界)は当時、西会津でバスの運転手をしていたが、道路決壊で路線を通ることができない状況に陥った。
その頃、町役場や県庁では率先して「グァマ移住地」への米作移民の勧誘を行っており、「どうにもしょうがないのでブラジルに行こう」と徳次さんが決めた。
親の反対を受けたリツさんだが、「旦那がブラジルに行くというなら従わざるを得ません」と姪を構成家族に入れ、子供3人も一緒に連れて移住した。56年10月末に「あめりか丸」で神戸を出発。混沌とした船旅が続き、同年12月第2次移民としてグァマ耕地に入植した。リツさんが33歳の時だった。
耕地に入って驚いたのは、河からの水が上がってくることだった。
「日本で聞いた話と全然違う」。渡伯を前に福島県の地元町役場壮行会が開かれた際、外務省職員がグァマ耕地の話をしていた。「とにかく、幅の広い河で米作りができる。河は土手が築いてあり、耕地の境には水門もできる。田んぼに水を入れたい時に水門を開け、土手を築いたところには道ができている。本当にあなた達は恵まれた人達ですよ」と。
しかし、現場に来てみれば「田んぼに水を入れる」どころの話ではない。雨期の2、3月になるとロッテ全体が浸水する。
「入植当時、何回泣いたか分かりません」—。容赦ない自然環境に、ただ生きるのが精一杯の状況だったという。
その頃の唯一の楽しみは、婦人同士で集まって話をすること。娯楽がほとんどない中で、河で釣ったピラルクーの料理法などを覚えた。
「旦那連中は集まればすぐにピンガで一杯となるけれど、女性達は家事もあったしそういう訳にはいきません。今となっては、懐かしい想い出と思うしかありません」
肝心の米は、樹木を伐採、山焼きをして片付けたところに少しずつ陸稲を蒔いていった。
第1次入植者が同地でキャベツを作って出荷しているのを知り、「自分たちも百姓の経験がある」と見よう見真似でキャベツ作りに励んだ。
雨期は米づくり、乾期はキャベツ生産の日々が続いたが、キャベツは生産過剰により、すでにベレンでは売れなくなっていた。トメアスーまで船を借り切って野菜類を持って行った時、同地はちょうど、ピメンタ(コショウ)景気に沸いていた。ピメンタの収入により、新品のカミニョン(トラック)を買ったという話を聞かされて、渡部さん家族の心は動いた。
トメアスーからピメンタの苗を1千本ほど購入し、ブラジル人から移住地内の他の耕地を購入。「我々にもピメンタ栽培ができないこともなかろう」と9家族が一緒に低地を出て心機一転を図った。しかし、肝心のピメンタは枯れて実らず、渡部さん以外は他の耕地へとさらに転住して行った。
結局、渡部さんは現在の移住地内の高台に移ってからは40年以上、ピメンタを植え続け、そのほかに養鶏、レモンやパパイアなどの果樹類、野菜類も栽培している。
「私らは結局、どこにも動けなかったんですよ」と笑うリツさんだが、地道な生産活動が生活を支えてきた。
リツさんは約40年前から趣味で短歌を始め、6年ほど前からはベレンの俳句会にも顔をだすなど、生活にも余裕ができてきた。夫に先立たれ、2002年には不幸にも次男の佳男さん(当時54歳)が事故死している。
「(グァマ耕地に入った時からの)生活のことや子供のことなど、自分の思ったことを日記代わりに短歌にして綴ってきました」というリツさんは、それを基にした俳句を作って応募。今年のNHK俳句大会で「海外作品賞」を受賞した。
「移民史を一人ひもとく星月夜」
辛苦を舐めながらも人生の大半を過ごしてきた土地に、今は大きな愛着を感じている。

松本 浩治(まつもと こうじ) 在伯14 年。
HPサイト「マツモトコージ写真館」
http://www.100nen.com.br/ja/matsumoto/


<ブラジル面白ニュース>
〜ブラジルの大富豪の行動様式〜


ブラジルに住んでいると激しい貧富の差を見せ付けられることが多いのですが、今回は私たち一般庶民にはほとんど縁のないブラジルの金持ちに関するニュースを見つけました。

「あの高級車を乗り捨て??」

ミナス・ジェライス州ノヴァ・リマ市で3 月7 日夜、同州道沿いに超高級イタ車、シルバーのフェラーリが乗り捨てられているのが発見されました。フェラーリはどうやらハンドル操作を誤ったらしく、市内にかかる橋の中央分離帯に激突し大破した状態。
ミナス・ジェライス州道路交通警察によると、運転者は衝突事故の後から姿を消しているとのこと。近くの病院に怪我人が搬送された記録はなく、盗難や強盗の可能性もあるとみていました。

「気になるフェラーリのお値段」

さて、警察により、車両のナンバープレートからフェラーリのオーナーの割り出しが行われました。ナンバープレートはサンタ・カタリーナ州で登録されているもよう。
警察はフェラーリのモデルを発表しませんでしたが、新車のフェラーリ・612 スカリエッティで平均250 万レアル(約1 億3 千万円)もするスポーツカーを買えるような人ですから、私のようなミドルクラスの人間からしたら、想像を絶する大富豪!
「持ち主は誰だ?」とみんなが興味津々でいましたが、数日後、オーナーの代理人を名乗る人物が警察に現れました。

「新車1 台分の借金を清算中」

オーナーはエンジニアのドウグラス・アギアールさん。フェラーリ5 台のほか、ポルシェ、ランボルギーニなどを所有するサンタ・カタリーナ随一のスポーツカーのコレクターです。事故を起こしたフェラーリは2005 年モデルで、3 年前にある企業から購入しました。
さて、事故現場から姿を消したドウグラスさん、実は、犯罪に巻き込まれたわけではなく、怪我の治療をしていただけ。そして、事故後、120 万レアル(約6300 万円)と評価されたフェラーリですが、ドウグラスさんの代理人いわく、2010 年のIPVA(自動車税)や強制保険など合計7万レアル(約360 万円)が未払いで車両を引き取ることができず、現在、その借金を清算中とのことでした。7 万レアルといえば、それだけで新車のホンダCIVIC やトヨタCOROLLAが買えそうです・・・・・・
ちなみに、このフェラーリ、ミナス州ベロ・オリゾンテ市郊外に住む大金持ちに売却されたばかりの時に事故を起こしたようです。ついでにいうと、事故当時、任意の民間保険もありませんでした。
スポーツカーを何台も所有していることもすごいですが、ミリオン単位の高級車を乗り捨てたり、私が何年かかっても絶対買えないぐらいの新車相当分の借金を払ったりするところ、ブラジルの大富豪の金銭感覚は理解が難しいです。

筆者 門脇 さおり 島根県出身。会社員。2 児の母。